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英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅡ)―第1回対仏同盟からエジプト遠征―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅡ)―第1回対仏同盟からエジプト遠征―
政治力学上の戦争を超えた、『国家の存在意義、歴史、文化』を賭けた、英・仏の戦いの開幕です。


 フランス革命は他のヨーロッパ列強にとり、無視できない事態でした。
フランスでは革命後一気に身分制度=封建制度の名残り、が基本的にない政治・社会体制に
一気に移行してしまったわけですから・・・。他のヨーロッパ諸国は当時、立憲君主制にしても、
啓蒙君主制にしても程度の差こそあれ、国家体制としては、基本的には封建制の流れの中にありました。
しかもフランスは当時ロシアに告ぐ人口を抱える大国でしたから、なおさらです。
そのフランスが封建・身分制度を廃止し、徴兵制を基礎とする150万に及ぶ陸軍を擁したのですから、
これはもう脅威以外の何ものでもありませんでした。
 フランスを対象とする包囲網が結成されました。1793年のことです。イギリス、オーストリア、
スペイン、プロイセンなどが参加しました。
             
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第1回対仏同盟の頃のナポレオン


 1796年ナポレオンは、この戦いでオーストリア軍と対峙するイタリア方面軍司令官としてヨーロッパの
歴史にデビューします。この年、ナポレオンは後のイタリア王国、当時のサルデーニャ王国をわずか
1ヶ月で攻略します。この年の年末から翌年にかけてイタリアでオーストリア軍を撃破し、オーストリアとの間に
講和条約を結び、対仏同盟を崩壊させます。この手際のよさは彼をフランス国内で国民的英雄に
押し上げました。

この後。彼の提案により当時、イギリスと同盟関係にあったオスマン帝国領エジプト、への遠征
が行われます。なぜエジプトかというと最大の敵「イギリス」を叩くにはインドとの連絡路を遮断する
必要があると考えたからです。
ここまでの段階では、イギリスとフランスの大規模な戦争はありませんでしたが、いよいよ両国の
大激突が始まります。

1798年ナポレオンの率いる50000人のフランス軍はエジプト遠征に出発しました。
陸上先頭ではフランス軍が有利に戦いを進め、マルタ島の占領、ピラミッドの戦いなどなどで勝利を収めて、
優勢でしたが、制海権を持つ強力なイギリス海軍にアレキサンドリア港沖の海戦で大敗してしまいます。
このときのイギリスの指揮官が、以後「ナポレオンの天敵」として立ちはだかるイギリスの片目・片腕の
海軍提督『ネルソン』
でした。この時の、彼の天才的戦術は以後フランス軍の『ネルソンコンプレックス=トラウマ』
になります。
彼はプロテスタントの貧乏牧師の子供、かたやナポレオンはフランスに征服されたコルシカ島の
貧乏貴族出身、戦いの主役もずいぶん少し前とは変わってきました。
当時のイギリスではもうすでに貴族階級出身でない軍幹部が出現し始めていました。

              
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世界三大提督といわれるネルソン提督


ところが、海上の制海権を押さえたイギリスがマルタ島を奪い返し、各国の通商権に制限を加えたため
味方同士であったはずのロシア、プロイセン、スゥエーデン、デンマークなどがこれに反対し、
武装中立同盟を結成します。例により政治力学上の「ゴチャゴチャ状態」が発生します。
特にデンマークはこれがきっかけでイギリスとの本格戦闘になり、コペンハーゲン沖の海戦が起こります。
この結果、中立同盟は、あっという間に解散します。以降、スゥエーデン、プロイセンはイギリスと仲直りし、
デンマークはフランスよりの立場をとるようになります。一方ナポレオンはエジプトに孤立し、
3年間に及ぶ、エジプト遠征は頓挫した状態で、終息を迎えます。

数々の戦争と騒乱を踏まえて、一歩、一歩、歴史の階段を上り、議会制度の発展を基礎として
『立憲君主制』にたどり着いたイギリスと、ある日突然というようなプロセスで、『封建絶対君主制』から
一気に「身分制度」「封建制度」のない民主的な革命政府を樹立したフランスとの戦いはまだまだ続きます。
これは両国のすべてを賭けた、私たち『日本人』には理解できない、まさに『国』と『国』との激突でした。
言い換えれば『竜虎の戦い』でしょうか。

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by futuregate3 | 2006-11-09 12:53
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