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国際的であるということ~ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ

国際的であるということ

ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ
(Jozef Antoni Poniatowski)


 ボニャトフスキはフランス人以外で一人だけフランス陸軍の元帥になった人です。
国際的、という意味で言えば、この人の家系はまさにそれに該当するでしょう。
 家系的にはポーランドの貴族です。祖父はスエーデン王、カール12世に仕え、帰国後17世紀初頭まで
ポーランドの首都だった、クラクフの城を任されていました。父親はオ-ストリアの将軍です。
                

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ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ


本人もオ-ストリア陸軍に入り、後に帰国、ポーランド陸軍少将にまでなりました。
当時ポーランドは新興の軍事大国『プロイセン』から圧迫を受けており、その結果として、
プロイセン、ロシア、オーストリアによる、歴史上『ポーランド分割』といわれる、国家が消滅する事態に
追い込まれていました。そのようなときにナポレオンが登場し、プロイセンなどをいとも簡単に
撃破します。

 彼の目にはナポレオンが、祖国ポーランドを救う救世主として映ります、これを見て、彼はポーランド軍を
率いてフランス軍に合流し、ナポレオンの傘下に入ります。翌1807年、ナポレオンにより、ワルシャワ公国
建国されると、ワルシャワ公国、陸軍総司令官に就任しました。その後ワルシャワ公国は一時、オーストリアの
侵攻を受けますが、ポーランド軍は反撃し、反対に旧領土のクスクフを奪回したりします。

 しかしナポレオンのロシア遠征のころから徐々に状況は変化し、ワルシャワ公国の存続すら
怪しくなってきます。しかしナポレオン離れが急速に進む中、彼はナポレオンを裏切りませんでした。
 1813年、ライブツィヒの戦いには、13000名のポーランド軍を自ら組織し参加します。
喜んだナポレオンは彼をフランス軍元帥とします。フランス人以外で元帥の地に就いたのは彼だけでした。
しかし戦いに敗れ、それからわずか3日後に退却作戦の指揮をしている最中に銃弾が彼を貫き。
彼は戦死します。

 上の記事で、赤く記した部分が彼の略歴および家系の概要です。弱小国ポーランドの出身とはいえ、
彼らは「何国人」なのでしょうか。ヨーロッパ人の中に国境というものはあるのでしょうか。
少なくとも「種」としての「国民意識」「愛国心」というものはないように思えるのですが。
個人のアイデンティティーの確立のよりどころとしての「くに」なのではないでしょうか。
前回のベルナドットについても合わせて、庶民レベルまで含めて考えれば決して稀なケースではない様に
思われます。
皆さんも留学されるに当たり、この部分もご自分のテーマにして、「個人レベルの国際化」に務めてください。
具体的には、われわれにとっての外国と彼らにとっての外国とは多少、意味・尺度が異なるのかもしれません。
少なくともイギリス人から見た、EUは私たち日本人のイメージする外国とは言えないようです。

by futuregate3 | 2006-11-13 12:17
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