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ノルマン人って何者?

ノルマン人って何者?
1066年、ノルマンコンクゥエスとを引き起こした彼らはマルタ島にも着ていたんですね。


 イングランドに侵入しノルマン征服王朝を打ち立てたウイリアム(ギョ―ム)1世のことは英国の
戦争の歴史で書きました。そこではフランスのノルマン地方の貴族と紹介しましたが、
このウイリアム1世の家系は正確に言うと、元々のフランス人ではないんですね。
 ちょっと詳しく書くと9世紀に30000人のバイキング(デーン人)がフランスのパリを包囲して
大暴れしました。率いていたのはバイキングの首長=酋長、ロロでした。
困り果てたフランス王はキリスト教(旧教)に改宗することを条件に、911年彼らがノルマンディー半島に
建国することを認めたんです。これが『ノルマンディー公国』といい、一応フランス王に臣下の
礼をとっていたんですね。彼はその末裔というところです。
ですから英国王朝のご先祖様は正確にはバイキングなんです。しかも当時、
イングランドにあったデーン王朝ももともとはデーン人=バイキングなんです。
          
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バイキングの正確な復元画

 このバイキングの活動範囲といったらめちゃめちゃ広かったんです。
一部はコロンブスよりはるかに早い時期に『グリーンランド』を経由して『北米』に到着していました。
現在でも彼らの遺跡はカナダなどで見つかっています。
現在のアイルランドにも『アイルランド自由国』を作っています。
 驚くことにロシアの母体となった『キエフ公国』も殻らが建国したということでその展開は
海ばかりではなかったんですね。
その一部は地中海にも進出し、1130年シチリア島を中心に『シチリア王国』を建国しています。
ノルマンジーから来たノルマン人と合流したそうです。マルタ島には高校世界史の重要項目である
「フェニキア人」がなんと紀元前1000年ころから住み着いていたそうですから、世界文化の
先進地域の一つですね。マルタ3000年の歴史のなかの200年足らずで「英語圏」になっちゃうんです。
それにしても、バイキングの歴史=ヨーロッパの歴史です。
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by futuregate3 | 2006-10-31 11:51
英国の戦争の歴史(ⅩⅥ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅥ)
愈々、というかやっと、グレートブリテンの幕開けです。※IYOIYO(読めますか)


『清教徒革命』と『名誉革命』の2回の市民革命の経験を経て、イギリスはいよいよ議会に指導権を
シフトした成熟した「立憲君主制」に拍車がかかります。
ウイリアム3世の没後もう一人の共同統治者、メアリーの妹、アンが王位に就きます。
1707年、イングランドとスコットランドの合同法が議会で成立し、それまでの同君制度に
終止符が打たれました。
                 
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アン女王


 この段階で『グレートブリテン』王国が成立します。この段階ではアイルランドはまだグレートブリテンには
含まれずに『グレートブリテンおよびアイルランド王国』という形でした。
 この時期に前後して17世紀初頭からスペイン無敵艦隊撃破による海上通商権の拡大を背景にして、
イギリスはポルトガル、スペインに遅れること100年余りで、「大航海時代」にはいって行きます。
ここからが植民地の拡大の時代の幕開けです。ヨーロッパでの戦争は相変わらず、間断なく行われており、
それのこうした形で北米大陸、インド大陸などでの勢力争いが激化します。
このあたりが以前に書いた北米植民地戦争になるわけです。
 どうにか歴史の縦糸と横糸が交わってきたと思います。これでも超はしょっています。
だんだんと現在のイギリスの原型が作られた時代に近づいていてきました。

 考えてみるとイギリスは異常とも云えるほど「ぐちゃぐちゃ」に戦争と内乱を続けてきましたが、
不思議なことに王室の系統維持には尋常でない努力を払ってきました。
 政治制度的にはこの段階でヨーロッパの先進国でありましたし、国内の抗争が「立憲君主制」
を生み出したとも言えるでしょう。
この後のイギリスの国家の軌跡を見ると、他のヨーロッパ列強に一歩先んじた政治体制と王室が
今日のイギリス国民の国に対するアイデンティティーの大きな要素になっているような気がします。

いよいよ現在の『ウインザー朝』につながる『ハノーバー朝』の始まりです。
今回は「はしょり」ましたが戦争は続いています・・・・。

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by futuregate3 | 2006-10-30 12:22
イギリスにUKでないイギリスがあります。・・・・知ってました?

イギリスにUKでないイギリスがあります―知ってました?

これが意外にメジャーなんですよ


 フランスノルマンジー半島の西方のドーバー海峡に、UKでないイギリスがあります。
詳しく言うと、英国王室の直轄領=私領がいまどきあるんです。その名を「チャンネル諸島」といいます。
ジャージー島、ガーンジー島、サーク島、ハーム島、オルダニー島の5つの島から出来ています。
           
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ジャージー島、ガーンジー島の位置


別名ノルマンジー諸島ともいいます。人口は合計15万人と「そこそこ」の、多さです。
政治的には独立国ではなく、王領植民地という位置づけです。
今時ですが、女王の代理で軍の最高司令官である副総督と、行政の責任者としての「代官」までいます。
UKには所属せず、EUにも加盟していません。軍事は英軍に委託していますが独自の議会と行政府を
持っています。英国議会には議席は持ちません。独自に行政されているということです。

 特にジャージー島は意外なところで、その名は世界的に有名です。
皆さんもよくその名前は目にされていると思います。
まず「ジャージー牛乳」で有名なジャージー種の乳牛はジャージー島で飼育されている乳牛で、
名前は島名に由来しています。

 ウールのニット網セーターといえば「ジャージー」。これもジャージー島にその名を由来しています。
 おまけに、アメリカのニュージャージー州の名前もジャージー島から来ています。

島では英語とフランス語が話されていますが、都市を離れれば完全にフランス語オンリーです。
それもそのはず住民のほとんどがフランス系の住民です。
今時こんな、お「伽噺」みたいな話がヨーロッパのど真ん中であるというお話です。
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by futuregate3 | 2006-10-29 22:00
なんで、マルタ島で英語なの?~マルタ島へ留学される方、お読みください。

なんで、マルタ島で英語なの?~マルタ島へ留学される方、お読みください。
愛玩犬として有名な「マルチーズ」はマルタ島、原産です。
―近頃、格安留学で有名です。でも、マルタ、3000年の歴史の中で
英語圏だったのはこの200年ほどだけです―

           
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マルタ島をその期限とするマルチーズは地中海周辺諸国の貴族の愛玩犬として、地中海の
航海にもよく伴われていました


勿論マルタ人なんて人種はいません。
アラブ系、アングロサクソン系、ラテン系などの混血です。
支配期間と相互の交流がその歴史上、一番長かったアラブの血が一番強いようです。
英語とマルタ語(アラブ系言語)はともに公用語で、元からの住民の間では「まぜこぜ」に使われています。
基本的に、話し言葉はマルタ語、書き言葉は英語らしいのですが、明確ではありません。
パン住民の間では、家ではマルタ語、職場では英語もパターンでしょうか。
生粋の英国人やイタリア人、トルコ人、中近東系の人もいます。実に多種多様です。

マルタ留学が盛んです。何で英語学校がマルタに多いかというと、近隣のヨーロッパ諸国の
英語研修の場としてイギリス領であったマルタ島が選ばれたという経緯があるそうです。
英語教育としての由緒はそれなりのものがあるんです。
つまり企業公共の国際間での仕事に
従事する人のための、あるいは、EU関連の英語の研修センター的な位置づけだったんですね。

ただ日常の生活の中で、英語のネイティブスピーカーが「ゴロゴロ」いる環境とも少し違うのですね。
ちなみに香港も長らくイギリスの支配下にあり、英語が公用語でしたが街中ではそう、英語を
聞きませんよね。あれと同じようなものです。
言い換えると、マルタが英語圏なら、香港も英語圏になります・・。少なくとも一般市民のレベルでは・・・。
一般の市民の間出タガログ語が使われている、フィリピンも公用語は英語です。
語学学校もたくさんあります。
留学している時間のほとんどは学校にはいません。
特に長期留学ともなれば、一般の社会との交わりが増えてきます。
本来であれば日常的に英語に接しながら「生きた英語」を習得していくわけです。
長期留学のポイントです。

語学教育が根付いた経緯が経緯ですから、学校ではきちっとしたキングズイングリッシュが学べます。
問題は一歩学校を出てからです。
その冬を知らない、太陽が豊かに降り注ぐ地中海の風光明媚な環境で、設備の整った教室での
英語の研修・・・。でも注意してください短期留学にはお勧めです。
長期留学は?アラブ訛りやイタリア風の英語になる可能性があります。
          
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マルタ騎士団がオスマントルコの大軍を迎えて34ヶ月も篭城した、聖アンジェロ要塞


ではマルタ島の歴史に少しだけ触れます。870年から1127年までの間マルタ島はイスラム帝国
支配下に置かれました。その後ノルマン人(ノルマン人のイギリス侵入の後)により占拠されます。
ノルマン人はイングランドだけでなくマルタにも侵攻したんですね。
時を経て、聖ヨハネ騎士団=後のマルタ騎士団の領土になります。
この影響で現在でも住民のほとんどはカソリック教徒です。マルタ騎士団は1565年から実に3年近く
オスマン帝国の大軍を相手に籠城戦を繰り広げます。―この辺のことは『塩野 七生』の小説がめっちゃ面白いです。
もうひとつ面白いことにプロテスタントの強いイギリスからの騎士団はその存在がマイナーで騎士団の中で
英語は使えなかったとか・・・。今は昔です。

 ナポレオンのエジプト遠征時以降一時ナポレオンに占領されますがその没落後は1964年の
独立までイギリスに統治されます。
現在は英連邦の一員という位置づけです。

イギリスの実効支配は200年弱と3000年に及ぶ同島の歴史の中でほんの一こまです。
現在は英語とマルタ語が公用語ですが、長い言語の歴史の中で、英語が登場したのは最近に
なってというような表現が当てはまるほど近々のことなのです。
それでも白地図を色分けするとマルタは英語圏なのです。
留学生の方もそう思い込んで、マルタ留学に出かけるのです。ところで語学留学はマルタ共和国の大きな
国際収支を支える、財源のひとつです。どこかの国と似てますね・・・・・。
マルタ共和国は英語研修を売りたい。国内のエージェントは安くて、魅力あるプログラムを売りたい。
『ニーズとニーズがマッチングしてプログラムがベルとコンベアーに乗って皆さんのところに届けられます。』 

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by futuregate3 | 2006-10-28 11:13
『モザイク国家、カナダ』と『溶解国家、アメリカ』

『モザイク国家、カナダ』と『溶解国家、アメリカ』
―カナダはMINIアメリカではありません―
隣接し、同じ英語圏でも全てが全然違う国、カナダとアメリカ


 よく、国際政治学などの領域ではアメリカのことを『溶解―坩堝(るつぼ)、国家』カナダのことを
『モザイク国家』と言います。モザイクの基本は「平面分割」です。溶解とは「混ざり合い溶け合う」事です。


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溶解国家 アメリカ


アメリカはこの数十年で何度も大きな戦いを経験しています。
「朝鮮戦争」、「ベトナム戦争」、「湾岸戦争」、「イラク戦争」と続いています。
その評価は別として、形・意味はどうあれ、多くの若者が『国家』に殉じています。
戦争の過程での反戦運動は必ずありますが、開戦時には少なくとも国民の50%以上が『世界の警察官』
『民主主義の擁護者』としての「くに」の役割と言うものに理解を示しているということは紛れもない事実です。
明らかに単なる「愛国心」とは異なるものです。『アメリカ合衆国』と言う「国家」に対する国民の
アイデンティティーが確立し、機能しているのでしょう。
そうでなければ、自分の国への直接の脅威以外の部分でこんなには戦えません。
アメリカ国民は、中国系であれ日系であれ、或いはヒスパニック系であれ、究極的には「アメリカ人」です。
これは留学生の方が「アメリカ留学」をされると間違いなく感じることだと思います。

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モザイク国家 カナダ


カナダは何故「モザイク国家」なのでしょうか。
ケベック州の独立問題が現在も現実の政治課題として存在するように、国の在り様が『移民国家』
としての色合いを非常に濃く維持しています。彼らはカナダ人である以上に出身国の文化・習慣、
場合によっては言語までも引きずっています。カナダに移民として赴いた日本人は日系のアメリカ人以上に
日本的だといえます。カナダの国是が「GIOVAL VILLAGE =世界の田舎」であることを見ても、
『国』としての自己主張がない国ともいえます。
「世界第2位の、広大な国土の中で個人・個々を大事にして、ゆっくりとした時間の中で生活する」
そういった雰囲気すらあります。教育制度も州によって全部異なります。

 以上のことは、両国の独立の経緯の影響もあります。アメリカは血を流して、独立を勝ち取りました。
その反省に立って、宗主国イギリスは「英連邦」と云う、ゆるい縛りの中で、カナダの独立を認めました。
カナダの中にはイギリスもあれば、中国もあります。イタリアもあればベトナムもあります。
ユーゴからの移民の子孫はユーゴ風の生活様式を守っています。
中国系移民の子孫の自己規定はカナダ人であると同じくらいに中国系だということです。
フランス系もイギリス系もヨーロッパ系も、韓半島系の人たちもみな同じです。

よくアメリカにするか、カナダにするか迷ってる、留学希望者の方を見受けます。
北米大陸が良いのだけれど、アメリカにはワーキングホリデーがないからカナダに行く、
と言うのも本当は少しおかしな話なんですよ。
同盟の学校がありますが、
「GLOVAL VILLAGE」はカナダの公式な『キャッチフレーズ』です。

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by futuregate3 | 2006-10-27 14:12
モザイク国家~カナダは今世紀中には、アジア系移民の国なるかもしれません

モザイク国家~カナダ~
カナダは今世紀中には、アジア系移民の国なるかもしれません。
英米系60%、アジア系26%、その他14%、これが、現在の人口比率です。


―アメリカのホワイトハウスはカナダ軍が作った(?)―
カナダ留学を検討される方は、このくらい知っておいてください


カナダはアジア系移民の国になる?
 以前、カルガリーから来た中国系のカナダ人に、正確な話ではないかもしれませんが、
カルガリーの人口の半分くらいは中国系だと聞かされたことがあります。
また日本の大手会話学校でカナダ人の教師に長く指導された人がイギリスに留学後、
「貴方の英語は中国人訛りの英語だ」と言われて少々ショックだった、という話も聞いています。
十分にありえる話だと言うことは、いままでのお話で、ご理解いただけると思います。
言語と言うのはそう言うものです。


私たち日本人は外国の国々を認識する際に知らず知らずのうちに大きな誤認識を犯しているようです。
ともすれば、無意識のうちに『イギリス人』や『フランス人』と言う人種がいるという前提で考えを進めがちです。
 それは「1つの人種が1つの国を構成する」という世界でもまれな「くに」に我々が千年以上も
定住していると言う、人類の歴史でも非常にまれな「くに」に住む「こくみん」と言う事情が
間違いなくあります。勿論カナダ人と言う人種は特定できません。
その国民の人種構成は上に記したとおりです。アジア系移民は確実に増え続けています。    
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アメリカ独立後、アメリカ軍とカナダ軍が北米を舞台に何度も戦っています
1763年にフランス領だったカナダは完全にイギリスの植民地になりました。
しかし住民の多くはフランス人で、イギリス系住民がオンタリオ州中心にカナダに入り始めたのは
アメリカ独立後のことです。
1775年、アメリカ軍のモントリオール占領を気にアメリカから反独立派の約50,000人の
王党派=ロイヤリストの人たちがカナダに移り住んだのがその始めと言います。
この時点ではカナダは実質的に2分されていました。
大西洋岸のアッパーカナダ(現オンタリオ州)とローワーカナダ(現ケベック州)とです。
アメリカ・カナダ間で戦われた戦いはどうもアメリカの独立派と反独立派との第2回戦のようです。
 1812年にはカナダ軍がワシントンに侵入し、ホワイトハウスが焼き討ちにあい黒く焼け焦げた壁の
修復のために白いペンキを塗ったのが『ホワイトハウス』の起源だそうです。



カナダには無数の『○○○人街』が存在します
アメリカにも「リトル・トーキョー」「チャイナ・タウン」・・・「コーリャン・タウン」などの外国人街が
何処に行って見られます。ただカナダのそれは少し違います。
その多いこと、と言ったら半端ではありません。「トルコ人街」「ベトナム人街」「イタリア人街」
「中国人街」「ロシア人街」「イラン人街」・・・なんでもありです。
カナダの都会をくまなく歩けば、国際博覧会場並みです。

カナダに居住している人種全てについて、あると言っても過言ではありません。
彼らはカナダ国内で自分たちの生活・文化・習慣の受け皿としての居住区を作り、それらを守り続ける傾向が
強いと言えます。カナダと言う国の中で自分たちの風習・文化・生活を守り続けているのです。
カナダに住んでいる・・・人であって、・・・出身のカナダ人ではないのです。
彼らの出身国に対するアイデンティティーは明確ですが、それはカナダと言う国には向けられません。
極端に言うと「カナダ」と言う国は彼らの意識には「環境」「自分の住んでいる場所の国際的な表記」
以上の意味はあまりないように思われます。
 個人レベルで言えば、彼らの意識の中に連合体としての認識以上にはカナダと言う国に
対する格別の意識はないのかもしれません。

一般にカナダは『モザイク国家』アメリカは『溶解ー坩堝(るつぼ)国家』と言われます。
次回はこの点について触れてみます。両国の違いが際立つでしょう。

日本人留学生にとっても人気のカナダ留学。でもカナダと言う国自体は日本人のイメージとは
全然別の国のようです。英語圏はみな同じ基準で国選びをされている方が多いようですが、
お気をつけください。UKのスコットランドやアイルランドとはまた違った問題があるのでしょう。
コーラの缶瓶の表の表記が英語、裏の表記がフランス語の国ですから・・・。

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by futuregate3 | 2006-10-26 12:32
英国の戦争の歴史(ⅩⅣ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅣ)
私掠船 ②
―「海賊船」も「通商破壊活動」―と名前を変えれば立派な軍事行動になります。
~歴史の表舞台には、王侯や貴族出身でない人たちが登場してきます~


ドレークの経歴は・・・・・

(1)奴隷貿易に従事
(2)私掠船艦隊を組織して活躍
(3)イギリス海軍提督として「スペイン無敵艦隊」を撃破


・・・・・と書くとなにやら、胡散臭い人物像が
浮かびます。しかし前回記した破天荒ともいえる功績で彼は当為のイギリス社会の中で、
超スーパースターでした。
ただ、スペインとの海戦で、劣勢を一気にひっくり返したという『ドレーク神話』は少し眉唾の面も
あるようです。一説では艦隊の戦闘力ではイギリス艦隊が上回っていたと言う説もあります。
確かに火力・運動能力ではイギリス艦隊が上回っていたようです。
ただ、新しい戦術で、従来確立されてきた戦術に立ち向かったことは事実のようです。
当時の海戦はガレー船が主力でした。ガレー船の戦術は相手の船に激突接岸し、選挙若しくは
破壊するものでした。
これに対して、ドレークの取った戦術は火力の優勢を利用したヒット&ラン作戦でした。
どうあれ、彼の乗船「ゴールデン・ハインド」号は現在でもロンドンのロンドン。
ブリッジの駅から程近い場所で復元され、繋留・公開されています。ロンドン留学の際はぜひどうぞ。

         
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映画で復元された、ゴールデン・ハインド号
ロンドンには復元されたゴールデン・ハインド号が公開されています。


 でもこの私 掠船、何でもかんでも襲っちゃうわけではないんですね。
狙う相手は交戦状態にある敵国の艦船でした。・・・中には本当の海賊になっちゃう船もありましたが。
 通商破壊活動ということで言えば、第1次大戦以前には良く行われていたことらしいんですね。
わが帝国海軍にもあったらしいですよ。その意味ではそれ程いかがわしい仕事ではなかったようです。
むしろ当時、国に対するアイデンティティーを隠しての、大海原での活動に何か「義勇軍」に当てはまる、
ある種ヒロイックなロマンが感じられたのではないでしょうか。
軍事行動といっても、捕まれば捕虜としては扱われません。単なる、海賊として処分されてしまいます。
言い過ぎかもしれませんが、新大陸発見の航海、新航路を探しての大航海に一脈
通じるものがあったようです。

 当時、奴隷制度そのものが、まだ否定されていませんでした。今日でこそ完全に過去の
人類の歴史として扱われるこの制度も当時は人類にとり、最も古い伝統的な制度と見做されていました。
ましてインド隊利器。アフリカ大陸などとの奴隷貿易に仕事は、当時の最先端ビジネスの
ひとつだったと思われます。

 強力な海軍をもたないといった理由で、負ければスペイン軍のイギリス侵攻を許すと言う、
国家の存亡をかけた海戦を、素人提督のドレークにゆだねてしまう当時のイギリスに、柔軟な姿勢と
思い切りの力、勢いと言ったものを感じませんか。こうしてイギリスは世界中に植民地を持ち、
爛熟期に入っていきます。
此処からの時代に現在のイギリス文化の原型ができあがったと見るのが妥当でしょう。
今までの戦争と殺戮に明け暮れた歴史の流れと今日、皆さんのイメージするイギリスとが
ダブる訳がないですよね。
 ドレークも晩年は全てを燃えつくしたかのように、連戦連敗、最後は西インド諸島に遠征中に
赤痢でこの世を去りました。

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by futuregate3 | 2006-10-25 13:34
英国の戦争の歴史(ⅩⅤ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅤ)
『清教徒革命』から『名誉革命』へ、
現代のイギリスの原型、「近代市民社会」が形成され始めます。


英国史上初の無血革命=『名誉革命』=立憲君主制の確立です。


『クロムウェルに始まる清教徒革命』、『名誉革命』と繋がる立憲君主制への流れの中で、近代
イギリスの原型―市民社会の形成が見えてきます。
やっと私たちの知っているイギリスが垣間見えてきました。
歴史の主役は『王家』・『貴族』から『議会』・『内閣』へと移っていきます。

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■夫婦で王様■
ウイリアム3世(左)メアリー2世(右)


 1688年、議会と対立したジェームス3世を議会はフランスに亡命させ、変わって娘のメアリーと
その夫でフランスに抵抗するプロテスタントの英雄、オランダ統領のオレンジ公ウイリアム=ウイリアム3世を招き、
共同統治ということで各々を王と女王ということで、即位させました。
カソリック勢力の強いスコットランド・アイルランドでは激しい戦いもありましたが、イングランドでは
完全な無血革命でした。

 クロムェルによる一時的にせよ共和制への移行をへて、この『名誉革命』によりイギリスに
立憲君主制―『君臨すれど、統治せず』―が確立したと言えるでしょう。

 種としての国民とその国土としての『国家』という象徴的な『国家観』を持ちようがなかった彼らは
長い歴史の中での戦乱の歴史―「カオス=混迷」のなかから、「国家」に対するアイデンティティーを
こうして確立していきます。
イギリス人、イギリスと言う国がその文化・歴史の十分な理解なしで、少々の留学期間の滞在では、
理解しがたいことがお分かりいただけるのではと思うのです。

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by futuregate3 | 2006-10-24 19:27
英国の戦争の歴史(ⅩⅢ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅢ)
―私 掠 船(しりゃくせん)~早い話、国家公認の海賊船です―
16世紀、イギリスは海賊船を使い、国家の1年分の国家の歳入に匹敵する収益を得たんです。


少し話が戻ります。『スペイン無敵艦隊』を撃破し、その後のイギリスの世界帝国への飛躍を
決定付けたイギリスの提督フランシス・ドレークは国家公認の海賊でした。
幾ら、16世紀のこととはいえ、1年間の国家の全収入に相当する金額を彼は一航海中の
海賊行為で稼ぎました。エリザベス女王が彼に投資した金額の実に20,000倍の金額だそうです。
イギリスはこの金額で、エリザベス1世の時代に急速に膨らんだ、その国家債務を帳消しに出来たほどです。
通算でも女王の投資金額に対する利益率は実に6,000倍でした。
 このことと、後の『スペイン無敵艦隊』の撃破とが、彼の人生を歴史に刻みました。
国家の財政の急場を救い、英国の世界帝国への足がかりを作ったのですから、これはもう
歴史のトピックスなんて物ではありません。変わった無法者=海賊がいたと言うような程度の
お話でもありません。
 このことを足がかりに、カソリック世界の盟主スペインに対しプロテスタント代表のイギリスが
戦いを有利に運ぶことになります。

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ドレークの乗船した、ゴールデン・ハインド号の模型

1577年から約3年間にわたる、南北アメリカを中心としたスペイン艦船を対象とする海賊行為で稼いだ金額は数十万ポンド、エリ1ザベス女王に、献上した金額が約30万ポンドになります。
この金額だけで、当時のイギリスの国家歳入をはるかに凌ぐ金額でした。
 1577年にイギリスの港を出港し旗艦、ゴールデン・ハインド号(と言っても100tの小船ですが)
以下の5隻の艦隊はエリザベス女王からの出資金で編成されたものです。
彼はこの功績で『海軍提督』となり、叙勲されています。その後も女王の出資で私掠船艦隊が
組織されましたが、この時の利益を超えることはありませんでした。
             
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フランシス・ドレーク

フランシスコ・ドレークはイングランド南部でカルバン主義の牧師の子供として生まれ、敬虔な
クリスチャンでした。青年期になると、親戚のしていた奴隷貿易を手伝った後、25歳のときに
自ら船を調達し、海賊業=私掠船業(?)をはじめました。
そして34歳のときゴールデン・ハインド号の出航に繋がっていきます。
奴隷貿易にしても、私掠船にしても、何かいかがわしく思えますが、当時としては最先端の
仕事のひとつでした。

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by futuregate3 | 2006-10-23 13:01
アメリカの独立運動とヨーロッパからの義勇軍

アメリカの独立運動とヨーロッパからの義勇軍
―それはヨーロッパにとり、まさに『新世界』の出来事、『夢舞台』でした―


 当時、イギリスが戦った相手で王室の存在が何処にも見られない、唯一のケースでした。
イギリスと対峙したのは、植民地の「大陸会議」でした。
大陸会議の中心メンバーは富裕なプランタ―=大地主で且つ、大規模農園の経経営者たちでした。
彼らの多くはピューリタン(清教徒)の流れを汲む敬虔なクリスチャンでした。
経済的には富裕な階層に属する人たちでしたが、生活ぶりは勤勉で質素なものでした。
宗教上では、原理主義者的ではありませんでしたが、どこか「クロムウェル」に通じるところの
ある人たちでした。        
                    
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ラファイエット


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パトリックヘンリー


 アメリカ独立戦争のもうひとつの特色はヨーロッパからの多くの義勇軍の参加でした。
先に書かしていただいた、ポーランドも国民的英雄「コシチュシコ将軍」を始め、フランス革命の際
「人権宣言」の起草者になった「ラファイエット侯爵」、日本ではベルサイユの薔薇で有名な
「ハンス フェルセン スゥエーデン伯爵」『自由を与えよ、然らずんば死を』の名文句で有名な
イングランド人「パトリックへンリー」、同じくイングランド人で、ワシントンの副官をコシチュシコと
ともに努めたトマス ペイン
、などその後の歴史に名をとどめる「歴々たる」顔ぶれでした。
特にラファイエット起草の『フランス人権宣言』は、『アメリカ独立宣言』から大きく影響を受けて
いることで有名です。

 どうやら歴史には多くの有能な人間をひきつける、「潮目」のような時点があるようですが、
アメリカ独立戦争はまさにそれでした。ヨーロッパの多くの人材をひきつけたものは何だったのでしょう。
 これは、アメリカ独立のバックボーンが国民個人と民主と言う政治体制が向かい合う、『民主主義』
と言う「個人の尊厳」、「個人の権利」に重きを置く政治体制・国家観に基づいていた事によります。
個人個人のアイデンティティ―の集合体としての国家観は、当時の個人の啓蒙はあっても所詮は
絶対王政の流れの中で、出口を見失っていたヨーロッパにとっては、画期的なことでした。
多くの若者にとりそれはまさに「新世界」でのできごとでした。
兎に角、命を懸けて、他国で戦うということはかなりの動機が必要になります。

 もう一方に、当時のヨーロッパにおけるイギリスの覇権をくじこうと言うパプスブルク家などの
思惑も見え隠れします。
フランスは『ラファイエット』等により、実質的に参戦している意識だったでしょうし、アメリカ合衆国の最初の
承認国はスエーデンでした、ポ-ランドで対イギリス抵抗運動が続いていました。
 兎に角、多くの若者たちがアメリカ独立を通って、歴史の『表舞台に飛び出していきます。
この後、
『アメリカ独立のうねり』は『フランス革命』に繋がっていきます。

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by futuregate3 | 2006-10-22 23:01