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UKでないイギリスがまだありました。

UKでないイギリスがまだありました。
マン島オートバイレースで有名な、あのマン島も
イギリス王室の直轄自治領、なんです。


北アイルランドとアイルランドの間のアイリッシュ海に浮かぶ日本の淡路島ほどの大きさの島がマン島です。
住民は古くにアイルランドから移住してきた人達で、ヨーロッパでも最古の議会制度を持っています。
ジャージー島などと同調に、エリザベス女王を国家元首とし、代理の総督を置く、人口7万人強の王領です。
イギリス議会に議席は持たずに、完全な自治制度のもとで行政が行われています。
外交・軍事に関してはイギリスに委託しています。
               
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マン島レース

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マン島の位置(赤いところ)


 大きな観光資源として、ヨーロッパでは絶大な人気の『マン島オートバイ耐久ロードレース』が有名です。
 このレースはヨーロッパ最古の議会である『青空議会=ティンワルド』で毎年運営規則が
定められていることでも有名です。

それにしても不思議な国ですね、イギリスは。
それだけ、ある意味で伝統と文化と地域の成り立ちの歴史を大事にしているということでしょうか。
貨幣もマンクス・ポンドとスターリング・ポンドとの併用です。公用語は英語とマン語ですが、ほとんど
死語に近かったマン語の復古運動も近年盛んだということです。
もちろん英語は
「ノーザン・アクセント」の強いアイルランドの英語に近いものです。
でもきっと語学学校のひとつくらいあるんでしょうね
         


語学学校の選び方、お問い合わせください
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# by futuregate3 | 2006-11-17 12:03
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅥ)―百日戦争―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅥ)―百日戦争―
ナポレオンのリターンマッチです


エルバ島での、ナポレオンは精力的に領地経営をしたようです。島の財政は改善され、産業の振興、
貿易関税の改正など次々に施策を実行しました。
一方フランスではルイ18世が即位し、王制が復活しましたが、国民の支持はなかなか得られず
不安定な国内情勢が続いていました。おまけに約束の年金もフランス政府からは支払われず、
ナポレオンは個人的にかなり、窮乏していた様です。  

 このフランス国内の混乱のさなかナポレオンはエルバ島追放から1年足らずで島を脱出、フランスに
上陸すると、かつての部下が集結し、数日で25万の軍を組織し、パリに入場しました。
ルイ18世は逃亡し、ナポレオン軍は現在のベルギー方面に進出します。
同盟側はすぐに第7時対仏同盟を結びこれに対抗します。ベルギー方面にはウエリントン率いるイギリス軍、
オランダ軍、プロイセン軍などが布陣しました。緒戦はナポレオンの電撃作戦が功を奏し、フランス軍が
有利に戦いを進めました。すぐに体勢を立て直したイギリス・オランダ軍は一部プロイセン軍を加え、
ベルギーのラ・ベル・ラリアンスに布陣してナポレオン軍を迎え撃ちました。
イギリス、オランダ、プロイセン連合軍の指揮をとったのは後でイギリスの首相にもなる、ウエリントン公でした。

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ウエリントン公、アーサー・ウエルズリー。アイルランド貴族の出身
後にイギリスの首相となります。


 フランス軍の主力をプロイセン軍がひきつけている間に、ナポレオン直轄の約、700000の部隊が、
ほぼ、同数のイギリス・オランダ連合軍と激突しました。ナポレオンに往年の冴えはなく(一説には、歯痛のため)、
作戦上のミスも重なり、最後はフランス軍を振り切った、プロイセン軍約10万がフランス軍の側面を攻撃し、
連合軍側の大勝利となりました。
 『なぜか、戦場近くの地名から「ウオータールーの戦い」と呼ばれます。1815年6月のことです。
 この戦いでフランス革命以来約20年にも及んだ、ヨーロッパの戦乱の終止符が打たれます。ナポレオンは今度は本当に絶海に離れ小島、大西洋に浮かぶ孤島『セント・ヘレナ』に流されます。
 イギリスはこの戦争の戦後処理も含め、抜け目なく海外での植民地を増やしていきます。
ひとつは旧フランスに植民地を、ひとつはナポレオン戦争中に短期的であれ消滅してしまった、
対仏同盟側諸国の植民地の肩代わりという形を通してです。悪く言えば、大家が留守の間に上がりこんで
占拠してしまうやり方です。「貪欲」さと「老獪』さを感じます。そして何よりも戦乱を潜り抜けてきた
「歴史の重み」と、その間の培った「国力」が最後には「国」としての体力の違いを見せたのでは、
という気がします。ナポレオン戦争灰ci時部の例外を除けばイギリスの一人勝ちになりました。

 ロンドンにある、イギリスとヨーロッパを結ぶユーロスターに始発駅で有名なウォータールーは
この古戦場の名前から名づけられたものだそうです。
フランス政府からイギリス政府の地名・駅名についてのクレームが寄せられているそうです。

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# by futuregate3 | 2006-11-16 12:43
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅤ)―エルバ島流刑―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅤ)-エルバ島流刑―
~流刑なんでしょうが、『流刑というのとは少しイメージが違うようです。』


 ライブツィヒの敗戦から、5ヶ月足らずフランスは同盟国軍のパリ入場を許します。
1814年4月にはフランス元老院のナポレオン廃位宣言を受けて、9日後にはナポレオンは
退位宣言に署名します。あっという間の出来事でした。
         

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パリに入城するロシア軍


 エルバ島に捕らえられ、罪人として流刑になるというのが私たちの知っている高校世界史の
教科書で学んだ内容ですが、流刑は流刑でも少しイメージが違うようです。
 実質的には、「地中海でも比較的大きなエルバ島の領主として追放された。』ぐらいのイメージです。
フランス皇帝退位の条件が、ありました。
 年金が一年当たり200万フランの 皇帝の称号の保持 400人の親衛隊の保有
・・・・の以上の条件でした。元フランス皇帝ということからすると『大幅格下げ』でしょうが、流刑とは少し違います。
残念ながらこの条件の記された文書の減便でどのような語彙が使われているかは
わかりませんが、『日本語に訳すと”流刑”ということなのでしょう。』
                
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退位直前のナポレオン

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# by futuregate3 | 2006-11-15 13:10
国際的であるということ(Ⅱ)

国際的であるということ(Ⅱ)
スコットランド出身、アメリカ海軍提督、ロシア海軍中将
晩年はフランスで過ごす。―こんな人がいるんです―



ジョン・ポール・ジョーンズは1747年スコットランドの生まれ、13歳のとき船乗りになりました。21歳で西インド諸島との交易を行う商戦の船長になりました。その後、しばらくの間、彼の経歴には
空白の時期があります。一説では、殺人罪で訴えられ、逃亡していたという歴史学者もいます。
とにかく、歴史の中に足跡を残した割りに、個人的な性格や、個人的な問題について問題を
残した人のようです。

イギリス海軍のネルソン提督、わが日本の東郷平八郎と並び世界三大提督に列せられるにしては
多少「光」の部分と「影」の部分のある人です。
   
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英雄か悪党か、ジョン・ポール・ジョーンズ


その評価も二分されている人です。ただ決断力と、男気と、行動力は並外れたものがあり、それだからこそ歴史の表舞台にその名を刻んでいるのでしょう。

アメリカ独立戦争に際しては、大陸海軍(タイリクカイグン)の創設に力を発揮し、中古商戦を購入しては
軍艦に仕立て上げていました。イギリス軍との海戦にも功績を残し、アメリカ国内ではある意味
英雄視されています。証拠といっては何ですが、現在彼のお墓はアナポリス・アメリカ海軍兵学校にあります。
フランス国王より新鋭軍艦をもらい、イギリスの新栄冠を撃破してみたり、アメリカの独立戦争時には
フランスを訪問し、礼砲射撃を指揮したり、『寅さん』的なところもあったようです。
独立戦争終結後は、じっとしていられない性格なのか、ロシア海軍の要請を受けロシアでも大活躍し海軍中将にまでなっています。あのバルチック艦隊の司令官が、確か中将ですから
大変な出世です。晩年は故郷のスコットランドにも帰らず、フランスで余生を過ごしました。
先にも記しましたが、アメリカ国内では海軍の創立者として、英雄視されています。

彼の場合も先に挙げた、ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキや、バティスト・ジュ-ル・ベルナドット同様に
『国』の概念を超えて、生きた人の一人なのでしょう。どうやら彼らにとり、国とは自らの架せられる
「くびき」ではなく、より個人的な価値観の中にあるようです。
今よりも世界が何倍も広かった「250年以上も昔のお話です」。

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# by futuregate3 | 2006-11-14 11:46
国際的であるということ~ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ

国際的であるということ

ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ
(Jozef Antoni Poniatowski)


 ボニャトフスキはフランス人以外で一人だけフランス陸軍の元帥になった人です。
国際的、という意味で言えば、この人の家系はまさにそれに該当するでしょう。
 家系的にはポーランドの貴族です。祖父はスエーデン王、カール12世に仕え、帰国後17世紀初頭まで
ポーランドの首都だった、クラクフの城を任されていました。父親はオ-ストリアの将軍です。
                

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ユーゼフ・アントニ・ポニャトフスキ


本人もオ-ストリア陸軍に入り、後に帰国、ポーランド陸軍少将にまでなりました。
当時ポーランドは新興の軍事大国『プロイセン』から圧迫を受けており、その結果として、
プロイセン、ロシア、オーストリアによる、歴史上『ポーランド分割』といわれる、国家が消滅する事態に
追い込まれていました。そのようなときにナポレオンが登場し、プロイセンなどをいとも簡単に
撃破します。

 彼の目にはナポレオンが、祖国ポーランドを救う救世主として映ります、これを見て、彼はポーランド軍を
率いてフランス軍に合流し、ナポレオンの傘下に入ります。翌1807年、ナポレオンにより、ワルシャワ公国
建国されると、ワルシャワ公国、陸軍総司令官に就任しました。その後ワルシャワ公国は一時、オーストリアの
侵攻を受けますが、ポーランド軍は反撃し、反対に旧領土のクスクフを奪回したりします。

 しかしナポレオンのロシア遠征のころから徐々に状況は変化し、ワルシャワ公国の存続すら
怪しくなってきます。しかしナポレオン離れが急速に進む中、彼はナポレオンを裏切りませんでした。
 1813年、ライブツィヒの戦いには、13000名のポーランド軍を自ら組織し参加します。
喜んだナポレオンは彼をフランス軍元帥とします。フランス人以外で元帥の地に就いたのは彼だけでした。
しかし戦いに敗れ、それからわずか3日後に退却作戦の指揮をしている最中に銃弾が彼を貫き。
彼は戦死します。

 上の記事で、赤く記した部分が彼の略歴および家系の概要です。弱小国ポーランドの出身とはいえ、
彼らは「何国人」なのでしょうか。ヨーロッパ人の中に国境というものはあるのでしょうか。
少なくとも「種」としての「国民意識」「愛国心」というものはないように思えるのですが。
個人のアイデンティティーの確立のよりどころとしての「くに」なのではないでしょうか。
前回のベルナドットについても合わせて、庶民レベルまで含めて考えれば決して稀なケースではない様に
思われます。
皆さんも留学されるに当たり、この部分もご自分のテーマにして、「個人レベルの国際化」に務めてください。
具体的には、われわれにとっての外国と彼らにとっての外国とは多少、意味・尺度が異なるのかもしれません。
少なくともイギリス人から見た、EUは私たち日本人のイメージする外国とは言えないようです。

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# by futuregate3 | 2006-11-13 12:17
フランス人、『バティスト・ジュール・ベルナドット』=スエーデン王、『カール14世』

フランス人、『バティスト・ジュール・ベルナドット』
=スエーデン王、『カール14世』

―ヨーロッパではこういうこともありなんです―


フランス革命のころの、ヨーロッパにはわれわれ日本人が理解できないようなことが歴史上に
起こっています。ひょっとしたら昔も、今も、似たようなことがおきているのかもしれません。
日産自動車のカルロス・ゴーン氏やプロ野球のヒルマン監督のことを、われわれは外国人経営者、
外国人監督と呼びます。どうやらこのこと自体が日本人的捉え方で、外国人という概念は皆さんの
留学先である、アメリカやイギリスにはないのかもしれません。
してみると、国際感覚を養うのは『語学の習得』という次元の問題ではありません。
              
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バティスト・ジュール・ベルナドット


フランスの田舎町、ポーで生まれたフランス人の平民の子、『バティスト・ジュール・ベルナドット』

現在のスエーデンのベルナドット王室、のご先祖です。一時はノールウエー国王も兼務していました。
 彼を引き立てたのはナポレオンです。当初はフランス陸軍で二人はライバルのような関係でした。
ただあまり欲のない性格のようで、自ら出世競争をすることもなかったようです。
 彼の奥さんは、ナポレオンの元彼女で、ナポレオンに振られたところを彼が妻としたような形に
なっています。ナポレオンにしてみれば、自分の政略結婚のために振ってしまった
「元の彼女」に対する罪滅ぼしの意味からも、彼をどんどん引き立てました。
 基本的には軍人としての実績がほとんどないまま、フランス陸軍元帥という地位まで上り詰めました。

 人柄のよい人だったようです。当時フランスの属国に甘んじていた、スエーデンの王室の血脈が
途絶えました。スエーデン王家としてはナポレオンに後継者の問題でお伺いを立てたわけです。
軍務の関係でスエーデンにかかわっていた彼はスエーデン国内でも人気が高かったようです。
いろいろな経緯から彼を推薦する人達がおり、とんとん拍子に話がまとまり、スエーデンの王太子に
なってしまいました。人種の問題は話にも出なかったようです。

彼の本当の意味での真骨頂はここからです。ベルナドットは、はじめは執政として、やがてナポレオン戦争後の
1818年には国王となりますが、このころから徐々にナポレオンと距離をとり始めます。
特にロシアへのナポレオンの遠征前後からはその傾向はより明確になります。
「政治においては友情も憎悪も存在しません。そこには運命の神が命じた祖国に対する義務しか存在しません」
これは彼が1812年にロシアと同盟を結び、反フランスの立場を鮮明にした際に、ベルナドットが
ナポレオンに送った手紙の一節です。
第6次対仏同盟に際しては積極的にこれに参加します。そして、ライブツィヒの戦いでは同盟軍の
総司令官を勤めるのです。フランス軍の内実に精通した彼に勝利の鍵があるようです。

ベルナドット王朝は現在も続き、スエーデン王室として『立憲君主』国スエーデンを支えています。
わが国では21世紀の今日でも外国人経営者の導入に慣れてきているとは言え、やはり特殊なもの
として捉える傾向があります。「王様に外国人を迎える」という捉え方そのものが「特殊」なのかもしれません。
『国際化』を唱えるのであれば、大リーグで松井選手が活躍するのも、日本人の学者が外国の学校で教鞭をとるのも、『全体としての国』の問題と絡めてはいけないことなのでしょう。
そうすると、『頭脳流失』などという概念の規定自体がおかしい、のですかね。

上のお話『日本』にあてはめてみたら・・・。
有得ないですよね。

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# by futuregate3 | 2006-11-12 07:38
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅣ)-ナポレオン帝国の絶頂―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅣ)―ナポレオン帝国の絶頂―
~絶頂期は歴史の分水嶺?凋落の序曲

 「大陸軍」、なんて読むかわかりますか?・・・・・「だいりくぐん」です。
「たいりくぐん」はアメリカ独立戦争の植民地軍です。


 1911年にはスペイン王は兄、弟が王位にある、ブレストファーレン王国、ナポリ王は義理の弟、
その上、ローマ教皇領は併合し、イタリア王国、ライン同盟、デンマーク、オランダ、スイス、ワルシャワ公国
などの国々が属領か衛星国化していました。

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1811年のヨーロッパ
ブルー:フランス帝国

薄いブルー:フランスの属領


 同時にこの年は、局地戦ではありますが、ナポレオンの直轄軍が史上初めて破れた年でもありました。
 この時期、スペインでのイギリスの援助の元に激化する抵抗運動と大軍=20万人の駐留による
戦費の増大がもたらす、経済への圧迫、大陸封鎖令による、イギリスとの通商の遮断による、
ヨーロッパ経済の悪化などフランスにとり大きな問題も発生してきていました。
 そんな1812年再び、イギリスと歩調を合わせようとするロシアに対してフランス軍27万を中核として
同盟国軍をあわせて60万の大軍=大陸軍によるロシア遠征が始まります。

 これに対してロシア軍は徹底的な焦土作戦をとります。大陸軍は、スモレンスク、モスクワと
大きな都市を陥落させますが、大半の建物が焼失させられていました。フランス軍の兵站を絶つ作戦を
ロシアは取ります。焦土作戦により補給を立たれたことと、ロシアの厳しい冬がフランス軍・同盟国軍を襲いました。
 またコザック騎兵や民衆による被害も大きなものがあったようです。ロシアに侵入した大陸軍
生き残った兵士は2万数千人に過ぎず、20万人が捕虜となりました。フランス軍のうちパリまで生還できた
フランス軍兵士は5000人程度という有様でした。この間、わずか半年足らずのことでした。

            
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退却するフランス軍および同盟国軍


 世の中の『摂理』は歴史の中で証明されています。一度負の方向に動き出した歴史の流れは、
加速していきます。1913年、イギリス軍に支援されたスペインの内乱は泥沼化していましたが、
反乱派を支援していたイギリス軍が、後に首相になるウエリントンに率いられ、フランス軍を
撃破してしまいました。ちなみに、ウエリントンはアイルランド貴族出身の軍人でした。

 1913年、ロシアへの敗戦、スペインでの苦戦を見て、再び第6次対仏同盟が結成されました。
参加鉱区はイギリス、オーストリア、スペイン、プロイセン、スエーデンなどです。
この段階で同盟側とフランス側の動員力は逆転していたといわれます。
3日間にわたり、繰り返されたナポレオン戦争を通しての最大の戦闘、ドイツで戦われた、ライブツィヒの戦いで
同盟軍はフランス軍に勝利します。双方の死傷者は10万人近くの大激戦でした。
この戦いでの同盟国側の指揮官、バティスト・ジュール・ベルナドットは現在のスエーデン王室の始祖であり、
元フランス陸軍の元帥です。平民出身で、スエーデン人で、後にスエーデン王となり、元フランス陸軍元帥で、
同盟国軍指揮官でもあった人物です。まさに、この時代のヨーロッパを代表する人物でした。


ライブツィヒの戦いの後、戦場はフランスに移ります。
頂を越えたとき、ナポレオンの運命は坂道を転げ落ちるようにして、衰退していきます。
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# by futuregate3 | 2006-11-11 12:36
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅢ)第2次対仏同盟
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅢ)第2次対仏同盟
ナポレオンは、危うく敵前逃亡罪で処刑されるところでした。


 1798年11月イギリス、ロシア、オーストリアが中心となり、第2次対仏同盟が結成されます。
1799年になるとオーストリア軍が北イタリアを奪い返し、フランスを圧迫します。
 フランス国内では総裁政府に対する批判が高まる中、ナポレオンはイギリス軍に包囲されている中、
エジプトを脱出し、フランスに戻ります。
 この時、ナポレオンには「敵前逃亡罪」の嫌疑がかけられていましたが、逮捕の前に彼は吟じ
クーデターを起こし、総裁政府を倒します。『ブリュメールのクーデター』です。
これによりブルジョワ階級の中で政争の場となっていた、「総裁政府」は倒れ、「執政政治」が
ほんの少しの間続きます。実はこのクーデター、ナポレオンが首謀者ではありませんでした。
彼は当初はその武力を利用されたに過ぎなかったのです。
             
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アルプスを越えるナポレオンを描いた絵―あちこちで見ます、格好いいですね
でも本当はロバだかラバに乗ってたんです。


しかし、彼はその国民的人気と武力から、新政府の第一執政としてまつり、あれよあれよという間に、
まつりあげられると、あれよあれよという間にその独裁権を確立します。
1800年彼はアルプスを越えて北イタリアに侵入、オーストリア軍を撃破しました。
 オーストリアは1801年そして最後まで戦ったイギリスは1802年にフランスと停戦条約を結び、
1年と少しだけヨーロッパに平和が戻りました。優勢なフランスはライバル、イギリスに対し、
強気に出ます。イギリス製品のヨーロッパ市場からの締め出し策です。
当時産業革命も同時進行中でイギリスはヨーロッパの工場といわれていましたがこの面でもフランスは
イギリスのライバルでした。両国の緊張関係は高まっていきます。

1803年、イギリスは再びフランスに対し、宣戦布告をします。
一方、ナポレオンは翌年帝政の開始を宣言し、自ら皇帝に即位します。
イギリス対フランスの戦いは、対ナポレオン個人との戦い、となってきます。
第3次対仏同盟の始まりです。1805年です。
 第3次対仏同盟戦争は陸戦ではフランス、海戦では連合軍という勝ち負けの明確な戦いが続きました。
陸上の戦闘はフランス陸軍のもっともっ華々しい時期でオーストリア帝国を実質的に崩壊させました。
ただスペインのトラファルガー岬、沖合いの海戦ではイギリス海軍のネルソン提督が、フランス、
スペインの連合艦隊を壊滅させ、ナポレオンのイギリス上陸計画を頓挫させました。
これにより35万人の兵士をイギリスに上陸させてイギリスを占領しようとしたナポレオンの目論見は消えたのですが、『たら、れば』の世界の話ですがbもしも子に計画が実行されていたら、その後の世界史は大きく変化していたでしょう。歴史はこのような局面を何度も経てきています。

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トラファルガーの海戦
ネルソン提督の死に際の言葉「神に感謝する。私は義務を果たした」


この戦いにより。ロシアはフランス側の立場をとり、オーストリアは「神聖ローマ帝国』の解体に
追い込まれました。
1806年から1807年にかけては『フリードリッヒ大王』以来の軍事国家プロイセンがナポレオンに挑みますが、
これもフランス側の勝利に終わり、プロイセンはその領土を大きく失います。

 この時期、スペインでの半フランス抵抗運動が泥沼化しだし、まるでイラク戦争のようにフランス軍は
大兵力をスペインに釘付けにさせられます。
腐敗を誇ったフランス陸軍も局地的に破れる状況が出てきました。
ナポレオンの覇権が絶頂を迎えるその時期です。
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# by futuregate3 | 2006-11-10 13:04
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅡ)―第1回対仏同盟からエジプト遠征―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅡ)―第1回対仏同盟からエジプト遠征―
政治力学上の戦争を超えた、『国家の存在意義、歴史、文化』を賭けた、英・仏の戦いの開幕です。


 フランス革命は他のヨーロッパ列強にとり、無視できない事態でした。
フランスでは革命後一気に身分制度=封建制度の名残り、が基本的にない政治・社会体制に
一気に移行してしまったわけですから・・・。他のヨーロッパ諸国は当時、立憲君主制にしても、
啓蒙君主制にしても程度の差こそあれ、国家体制としては、基本的には封建制の流れの中にありました。
しかもフランスは当時ロシアに告ぐ人口を抱える大国でしたから、なおさらです。
そのフランスが封建・身分制度を廃止し、徴兵制を基礎とする150万に及ぶ陸軍を擁したのですから、
これはもう脅威以外の何ものでもありませんでした。
 フランスを対象とする包囲網が結成されました。1793年のことです。イギリス、オーストリア、
スペイン、プロイセンなどが参加しました。
             
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第1回対仏同盟の頃のナポレオン


 1796年ナポレオンは、この戦いでオーストリア軍と対峙するイタリア方面軍司令官としてヨーロッパの
歴史にデビューします。この年、ナポレオンは後のイタリア王国、当時のサルデーニャ王国をわずか
1ヶ月で攻略します。この年の年末から翌年にかけてイタリアでオーストリア軍を撃破し、オーストリアとの間に
講和条約を結び、対仏同盟を崩壊させます。この手際のよさは彼をフランス国内で国民的英雄に
押し上げました。

この後。彼の提案により当時、イギリスと同盟関係にあったオスマン帝国領エジプト、への遠征
が行われます。なぜエジプトかというと最大の敵「イギリス」を叩くにはインドとの連絡路を遮断する
必要があると考えたからです。
ここまでの段階では、イギリスとフランスの大規模な戦争はありませんでしたが、いよいよ両国の
大激突が始まります。

1798年ナポレオンの率いる50000人のフランス軍はエジプト遠征に出発しました。
陸上先頭ではフランス軍が有利に戦いを進め、マルタ島の占領、ピラミッドの戦いなどなどで勝利を収めて、
優勢でしたが、制海権を持つ強力なイギリス海軍にアレキサンドリア港沖の海戦で大敗してしまいます。
このときのイギリスの指揮官が、以後「ナポレオンの天敵」として立ちはだかるイギリスの片目・片腕の
海軍提督『ネルソン』
でした。この時の、彼の天才的戦術は以後フランス軍の『ネルソンコンプレックス=トラウマ』
になります。
彼はプロテスタントの貧乏牧師の子供、かたやナポレオンはフランスに征服されたコルシカ島の
貧乏貴族出身、戦いの主役もずいぶん少し前とは変わってきました。
当時のイギリスではもうすでに貴族階級出身でない軍幹部が出現し始めていました。

              
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世界三大提督といわれるネルソン提督


ところが、海上の制海権を押さえたイギリスがマルタ島を奪い返し、各国の通商権に制限を加えたため
味方同士であったはずのロシア、プロイセン、スゥエーデン、デンマークなどがこれに反対し、
武装中立同盟を結成します。例により政治力学上の「ゴチャゴチャ状態」が発生します。
特にデンマークはこれがきっかけでイギリスとの本格戦闘になり、コペンハーゲン沖の海戦が起こります。
この結果、中立同盟は、あっという間に解散します。以降、スゥエーデン、プロイセンはイギリスと仲直りし、
デンマークはフランスよりの立場をとるようになります。一方ナポレオンはエジプトに孤立し、
3年間に及ぶ、エジプト遠征は頓挫した状態で、終息を迎えます。

数々の戦争と騒乱を踏まえて、一歩、一歩、歴史の階段を上り、議会制度の発展を基礎として
『立憲君主制』にたどり着いたイギリスと、ある日突然というようなプロセスで、『封建絶対君主制』から
一気に「身分制度」「封建制度」のない民主的な革命政府を樹立したフランスとの戦いはまだまだ続きます。
これは両国のすべてを賭けた、私たち『日本人』には理解できない、まさに『国』と『国』との激突でした。
言い換えれば『竜虎の戦い』でしょうか。

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# by futuregate3 | 2006-11-09 12:53
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅠ)―ナポレオン戦争―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅠ)―ナポレオン戦争―
厳密に言うと、ナポレオンはフランス人ではありません。


歴史の流れから言うと、ナポレオン戦争の前にフランス革命に飛ばなければいけないのですが、
このブログは戦争を通してのイギリスの歴史をテーマにしています。
そこでナポレオンの登場につながります。悪しからず・・・。

早速ですが、ナポレオンはどこの出身だかご存知ですか?そう、イタリアの西方の地中海上に浮かぶ大きな島、
「コルシカ島」ですよね。ここまではどなたもご存知だと思います。
この、「コルシカ島」-イタリア半島のすぐそばにあります。実はナポレオンの生まれる少し前まで、
イタリアの『ジェノバ』の領土だったんです。コルシカ島は、1769年にフランス領になったんですが、ナポレオンの生まれたのが、ちょうど1769年なんです。
あのイタリア=コロンブスもジェノバ人でした。でも彼の航海はスペイン王国の事業として行われました。ここでも『種』としての人種は意味を持っていません。ヨーロッパはひとつ、の実例でしょうか。
ですから、言い方ひとつで、ナポレオンもイタリア人ということになります。
           
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若かりし頃のナポレオンの肖像画


 コルシカの、貧乏貴族の子息であったナポレオンはフランスの士官学校に入ります。
背せきはひどく悪く、58人中42番でした。一番人気にない砲兵科に在学しました。
どうやら天才=ナポレオンというのも眉唾のようです。歴史を司った神の摂理か、16歳にして
士官学校を卒業してからの彼は時代の背景とラッキーさに支えられ、トントン拍子に出世します。
彼が軍人になって、6年目にフランス革命が始まります。ナポレオンがなにをしたかというと、
当時フランス革命の主流派『ジャコバン党』を支持するチラシを自分で作り配布しました。
何でこんなことをしたか、『ジャコバン党』の幹部に注目されるためです。彼は同時に人目を引く
パフォーマンスもしました。当時、王党派を支援する、イギリス軍に占領されていた軍港
「ツーロン」を彼らの手から奪い返したのです。
当時王党派と革命派に軍隊も分裂していましたから、貴族しかなれない将校は基本的に人材
不足状態でした。彼はいっぺんに注目を浴び、わずか25歳で革命軍の少将に上り詰めました。
と思ったら『ジャコバン党』が失権し、彼も一時逮捕されたりします。
ここからが運の強さというか、神の摂理というか、彼の前に一人の女性が現れます。
後のナポレオン婦人「ジョセフィーヌ」です。彼女は社交界の花形で革命政府の大物政治家の愛人でした。
時を同じくして、パリで起きた王党派の反乱を鎮圧し、大物政治家の後ろ盾もあり、革命軍の
国内軍司令官に復活します。その後、オーストリア軍と対戦すべくイタリア派遣軍総司令官として
歴史の表舞台に登場します。ナポレオン、26際のときです。
一介の、イタリア人だったかもしれない彼が、フランス人として歴史に浮かび上がってくるのは
このときからです。
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# by futuregate3 | 2006-11-08 13:14