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英国の戦争の歴史(番外編)-トルコ人は日本びいき-

英国の戦争の歴史(番外編)-トルコ人は日本びいき-
敵の敵は味方、これ国際関係での常識です。地球規模の大戦争クリミア戦争


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赤い部分がクリミア半島、青い部分は黒海

 トルコ人は大の日本人びいきです。ロンドンで意外に多いのが、トルコ人の男性と日本人女性の
カップルです。日本人女性を彼女とすることは、彼らトルコ人男性から言うと自慢のようです。
 トルコには、Togo通りやNogio通りが実在するなんてまことしやかな『嘘』が昔からありますが、
お年寄りの中に、TOGOさんやNOGIさんがいるのは本当のお話です。これは「日露戦争」で、
日本がトルコの宿敵、「ロシア」を打ち破ったからなのです。
 それともう一つ、1890年の「エルトゥール号遭難事件」があります。今でもトルコでは子供でも知っている有名な話です。
これはトルコの親善大使を乗せた同号が和歌山県、串本沖で遭難し、地元の漁民に救助されて
厚く保護されたことによります。この種の話はこの時代に実は多く日本人の国民性がこの時代には
国際親善の舞台で発揮されることがよくあり、以後ある時代までは多く見られました。
明治の日本人はその意味で比較的国際性があったようです。
ともかくこの二つの要因からトルコでは今でも日本の評判が高く、基本的にはわれわれが感じる
何倍も日本びいきのようです。
                
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ナイチンゲール

 「ナイチンゲール」で有名なクリミア戦争は、基本的にオスマントルコ帝国とその北方の脅威であり続けた
ロシア帝国との間に戦われました。トルコ側についたのは、イギリスとフランスです。世界規模の戦争になります。1853年から1856年の間クリミア半島を主戦場に戦われました。

 実はこの戦争、幕末の太平洋・日本近海・カムチャッカ半島沖でも展開されていました。
幕末の諸外国との交渉のように日本史などでは書かれていますが、ロシアの極東艦隊を攻撃する
目的で日本近海に派遣されてイギリス艦隊だったりしたのです。クリミア半島だけでなくドナウ川流域を
含む広い地域で戦われました。19世紀最後の大規模な戦いでした。英・仏両国の艦隊がバルト海に
突入したりしました。

この戦争意外なところで今日の男性ファッションに関係します。ラグラン袖のコート、カーディガンといえば
男性ファッションのある意味基本になっていますがどちらもこの戦争でイギリス軍を率いた
ラグラン将軍・カーディガン将軍の考案です。

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      イギリス発祥の男性ファッションの多くはイギリス陸軍の将軍の考案が多いようです。
前に書いたウリントン将軍も靴を考案しています。

 いずれにしても、オスマントルコ帝国は北からのロシアの脅威を常に受け続けました。
そのロシアを極東の局地戦とはいえ、打ち破ったに日本にトルコ人は熱狂したということです。
ひょっとすると、この時代の日本は今日より世界の前面に出ていたのではないでしょうか。
余談ですが、ロシアの文豪、あの『トルストイ』もこの戦争に参戦し、その戦いを作品にしています。

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by futuregate3 | 2006-12-25 15:42
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅥ)-大英帝国-

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅥ)-大英帝国-

『日の沈まぬ国―大英帝国』の完成です。


 ナポレオン戦争のおよそ20年にわたる、ヨーロッパの激変の中で、世界に散在していた
ヨーロッパ列強の『植民地』地図も大きく変化していきます。本国がナポレオンの侵略を受けたオランダの植民地の多くは、戦争が終わった後もイギリス軍が駐留したまま、イギリスの植民地に
移行していきます。特に南アフリカの、オランダ領ケープ植民地はフランスの侵攻を恐れたイギリス軍により
占拠されていましたが、戦争終結の後も結局はイギリス領化していきます。
東アジアのオランダ領の多くもイギリスの植民地となっていきます。アメリカの独立で大きな失策を犯した
イギリスはカナダを英連邦の一員のまま独立に導きます。莫大な借款の代償としてエジプトを手に入れると
平行して、東西アフリカの諸国を次々に植民地化していきます。
またフランスも多くの植民地を失い、その多くはイギリスのものとなりました。

        
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19世紀後半から20世紀前半にいたる大英帝国領
赤い部分です。


こうしてみてくると、イギリスの「巧妙さ」「粘り強さ」「総合した国力の強さ」が目立ちます。
制海権を制していたことがやはり大きいのですが、もうひとつ、この時期になると各国を悩ましたのが
戦費の調達でした。兵器も進歩し、無料の人間が戦力の時代ではなくなっていました。
「世界の通商」を押さえ、「世界の工場」といわれるほどに、産業革命を通して国内製造業の振興に
成功していた点で経済力を背景に持っていた点が、ボディーブローの打ち合いのようなこの間の戦いの
期間をしのげた大きな要素といえるでしょう。
それと見逃してならないものがイギリスという『国』そのものが数百年の血で血を洗う国内外の戦乱の中で
培ってきたものの力が大きいのではないでしょうか。そしてまた、そのの戦乱が加速させたイギリス社会の
階層・政治体制も含めた流動化・変革が『ジョン・ブル魂』に象徴される国民性をはぐくみ、『国』
として成熟させていったように思われます。1800年代から2000年初頭の時期、イギリスだけ
役者が『一枚上』に見えてきます。

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by futuregate3 | 2006-11-22 13:41
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅥ)―百日戦争―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅥ)―百日戦争―
ナポレオンのリターンマッチです


エルバ島での、ナポレオンは精力的に領地経営をしたようです。島の財政は改善され、産業の振興、
貿易関税の改正など次々に施策を実行しました。
一方フランスではルイ18世が即位し、王制が復活しましたが、国民の支持はなかなか得られず
不安定な国内情勢が続いていました。おまけに約束の年金もフランス政府からは支払われず、
ナポレオンは個人的にかなり、窮乏していた様です。  

 このフランス国内の混乱のさなかナポレオンはエルバ島追放から1年足らずで島を脱出、フランスに
上陸すると、かつての部下が集結し、数日で25万の軍を組織し、パリに入場しました。
ルイ18世は逃亡し、ナポレオン軍は現在のベルギー方面に進出します。
同盟側はすぐに第7時対仏同盟を結びこれに対抗します。ベルギー方面にはウエリントン率いるイギリス軍、
オランダ軍、プロイセン軍などが布陣しました。緒戦はナポレオンの電撃作戦が功を奏し、フランス軍が
有利に戦いを進めました。すぐに体勢を立て直したイギリス・オランダ軍は一部プロイセン軍を加え、
ベルギーのラ・ベル・ラリアンスに布陣してナポレオン軍を迎え撃ちました。
イギリス、オランダ、プロイセン連合軍の指揮をとったのは後でイギリスの首相にもなる、ウエリントン公でした。

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ウエリントン公、アーサー・ウエルズリー。アイルランド貴族の出身
後にイギリスの首相となります。


 フランス軍の主力をプロイセン軍がひきつけている間に、ナポレオン直轄の約、700000の部隊が、
ほぼ、同数のイギリス・オランダ連合軍と激突しました。ナポレオンに往年の冴えはなく(一説には、歯痛のため)、
作戦上のミスも重なり、最後はフランス軍を振り切った、プロイセン軍約10万がフランス軍の側面を攻撃し、
連合軍側の大勝利となりました。
 『なぜか、戦場近くの地名から「ウオータールーの戦い」と呼ばれます。1815年6月のことです。
 この戦いでフランス革命以来約20年にも及んだ、ヨーロッパの戦乱の終止符が打たれます。ナポレオンは今度は本当に絶海に離れ小島、大西洋に浮かぶ孤島『セント・ヘレナ』に流されます。
 イギリスはこの戦争の戦後処理も含め、抜け目なく海外での植民地を増やしていきます。
ひとつは旧フランスに植民地を、ひとつはナポレオン戦争中に短期的であれ消滅してしまった、
対仏同盟側諸国の植民地の肩代わりという形を通してです。悪く言えば、大家が留守の間に上がりこんで
占拠してしまうやり方です。「貪欲」さと「老獪』さを感じます。そして何よりも戦乱を潜り抜けてきた
「歴史の重み」と、その間の培った「国力」が最後には「国」としての体力の違いを見せたのでは、
という気がします。ナポレオン戦争灰ci時部の例外を除けばイギリスの一人勝ちになりました。

 ロンドンにある、イギリスとヨーロッパを結ぶユーロスターに始発駅で有名なウォータールーは
この古戦場の名前から名づけられたものだそうです。
フランス政府からイギリス政府の地名・駅名についてのクレームが寄せられているそうです。

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by futuregate3 | 2006-11-16 12:43
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅤ)―エルバ島流刑―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅤ)-エルバ島流刑―
~流刑なんでしょうが、『流刑というのとは少しイメージが違うようです。』


 ライブツィヒの敗戦から、5ヶ月足らずフランスは同盟国軍のパリ入場を許します。
1814年4月にはフランス元老院のナポレオン廃位宣言を受けて、9日後にはナポレオンは
退位宣言に署名します。あっという間の出来事でした。
         

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パリに入城するロシア軍


 エルバ島に捕らえられ、罪人として流刑になるというのが私たちの知っている高校世界史の
教科書で学んだ内容ですが、流刑は流刑でも少しイメージが違うようです。
 実質的には、「地中海でも比較的大きなエルバ島の領主として追放された。』ぐらいのイメージです。
フランス皇帝退位の条件が、ありました。
 年金が一年当たり200万フランの 皇帝の称号の保持 400人の親衛隊の保有
・・・・の以上の条件でした。元フランス皇帝ということからすると『大幅格下げ』でしょうが、流刑とは少し違います。
残念ながらこの条件の記された文書の減便でどのような語彙が使われているかは
わかりませんが、『日本語に訳すと”流刑”ということなのでしょう。』
                
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退位直前のナポレオン

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by futuregate3 | 2006-11-15 13:10
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅣ)-ナポレオン帝国の絶頂―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅣ)―ナポレオン帝国の絶頂―
~絶頂期は歴史の分水嶺?凋落の序曲

 「大陸軍」、なんて読むかわかりますか?・・・・・「だいりくぐん」です。
「たいりくぐん」はアメリカ独立戦争の植民地軍です。


 1911年にはスペイン王は兄、弟が王位にある、ブレストファーレン王国、ナポリ王は義理の弟、
その上、ローマ教皇領は併合し、イタリア王国、ライン同盟、デンマーク、オランダ、スイス、ワルシャワ公国
などの国々が属領か衛星国化していました。

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1811年のヨーロッパ
ブルー:フランス帝国

薄いブルー:フランスの属領


 同時にこの年は、局地戦ではありますが、ナポレオンの直轄軍が史上初めて破れた年でもありました。
 この時期、スペインでのイギリスの援助の元に激化する抵抗運動と大軍=20万人の駐留による
戦費の増大がもたらす、経済への圧迫、大陸封鎖令による、イギリスとの通商の遮断による、
ヨーロッパ経済の悪化などフランスにとり大きな問題も発生してきていました。
 そんな1812年再び、イギリスと歩調を合わせようとするロシアに対してフランス軍27万を中核として
同盟国軍をあわせて60万の大軍=大陸軍によるロシア遠征が始まります。

 これに対してロシア軍は徹底的な焦土作戦をとります。大陸軍は、スモレンスク、モスクワと
大きな都市を陥落させますが、大半の建物が焼失させられていました。フランス軍の兵站を絶つ作戦を
ロシアは取ります。焦土作戦により補給を立たれたことと、ロシアの厳しい冬がフランス軍・同盟国軍を襲いました。
 またコザック騎兵や民衆による被害も大きなものがあったようです。ロシアに侵入した大陸軍
生き残った兵士は2万数千人に過ぎず、20万人が捕虜となりました。フランス軍のうちパリまで生還できた
フランス軍兵士は5000人程度という有様でした。この間、わずか半年足らずのことでした。

            
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退却するフランス軍および同盟国軍


 世の中の『摂理』は歴史の中で証明されています。一度負の方向に動き出した歴史の流れは、
加速していきます。1913年、イギリス軍に支援されたスペインの内乱は泥沼化していましたが、
反乱派を支援していたイギリス軍が、後に首相になるウエリントンに率いられ、フランス軍を
撃破してしまいました。ちなみに、ウエリントンはアイルランド貴族出身の軍人でした。

 1913年、ロシアへの敗戦、スペインでの苦戦を見て、再び第6次対仏同盟が結成されました。
参加鉱区はイギリス、オーストリア、スペイン、プロイセン、スエーデンなどです。
この段階で同盟側とフランス側の動員力は逆転していたといわれます。
3日間にわたり、繰り返されたナポレオン戦争を通しての最大の戦闘、ドイツで戦われた、ライブツィヒの戦いで
同盟軍はフランス軍に勝利します。双方の死傷者は10万人近くの大激戦でした。
この戦いでの同盟国側の指揮官、バティスト・ジュール・ベルナドットは現在のスエーデン王室の始祖であり、
元フランス陸軍の元帥です。平民出身で、スエーデン人で、後にスエーデン王となり、元フランス陸軍元帥で、
同盟国軍指揮官でもあった人物です。まさに、この時代のヨーロッパを代表する人物でした。


ライブツィヒの戦いの後、戦場はフランスに移ります。
頂を越えたとき、ナポレオンの運命は坂道を転げ落ちるようにして、衰退していきます。
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by futuregate3 | 2006-11-11 12:36
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅢ)第2次対仏同盟
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅢ)第2次対仏同盟
ナポレオンは、危うく敵前逃亡罪で処刑されるところでした。


 1798年11月イギリス、ロシア、オーストリアが中心となり、第2次対仏同盟が結成されます。
1799年になるとオーストリア軍が北イタリアを奪い返し、フランスを圧迫します。
 フランス国内では総裁政府に対する批判が高まる中、ナポレオンはイギリス軍に包囲されている中、
エジプトを脱出し、フランスに戻ります。
 この時、ナポレオンには「敵前逃亡罪」の嫌疑がかけられていましたが、逮捕の前に彼は吟じ
クーデターを起こし、総裁政府を倒します。『ブリュメールのクーデター』です。
これによりブルジョワ階級の中で政争の場となっていた、「総裁政府」は倒れ、「執政政治」が
ほんの少しの間続きます。実はこのクーデター、ナポレオンが首謀者ではありませんでした。
彼は当初はその武力を利用されたに過ぎなかったのです。
             
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アルプスを越えるナポレオンを描いた絵―あちこちで見ます、格好いいですね
でも本当はロバだかラバに乗ってたんです。


しかし、彼はその国民的人気と武力から、新政府の第一執政としてまつり、あれよあれよという間に、
まつりあげられると、あれよあれよという間にその独裁権を確立します。
1800年彼はアルプスを越えて北イタリアに侵入、オーストリア軍を撃破しました。
 オーストリアは1801年そして最後まで戦ったイギリスは1802年にフランスと停戦条約を結び、
1年と少しだけヨーロッパに平和が戻りました。優勢なフランスはライバル、イギリスに対し、
強気に出ます。イギリス製品のヨーロッパ市場からの締め出し策です。
当時産業革命も同時進行中でイギリスはヨーロッパの工場といわれていましたがこの面でもフランスは
イギリスのライバルでした。両国の緊張関係は高まっていきます。

1803年、イギリスは再びフランスに対し、宣戦布告をします。
一方、ナポレオンは翌年帝政の開始を宣言し、自ら皇帝に即位します。
イギリス対フランスの戦いは、対ナポレオン個人との戦い、となってきます。
第3次対仏同盟の始まりです。1805年です。
 第3次対仏同盟戦争は陸戦ではフランス、海戦では連合軍という勝ち負けの明確な戦いが続きました。
陸上の戦闘はフランス陸軍のもっともっ華々しい時期でオーストリア帝国を実質的に崩壊させました。
ただスペインのトラファルガー岬、沖合いの海戦ではイギリス海軍のネルソン提督が、フランス、
スペインの連合艦隊を壊滅させ、ナポレオンのイギリス上陸計画を頓挫させました。
これにより35万人の兵士をイギリスに上陸させてイギリスを占領しようとしたナポレオンの目論見は消えたのですが、『たら、れば』の世界の話ですがbもしも子に計画が実行されていたら、その後の世界史は大きく変化していたでしょう。歴史はこのような局面を何度も経てきています。

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トラファルガーの海戦
ネルソン提督の死に際の言葉「神に感謝する。私は義務を果たした」


この戦いにより。ロシアはフランス側の立場をとり、オーストリアは「神聖ローマ帝国』の解体に
追い込まれました。
1806年から1807年にかけては『フリードリッヒ大王』以来の軍事国家プロイセンがナポレオンに挑みますが、
これもフランス側の勝利に終わり、プロイセンはその領土を大きく失います。

 この時期、スペインでの半フランス抵抗運動が泥沼化しだし、まるでイラク戦争のようにフランス軍は
大兵力をスペインに釘付けにさせられます。
腐敗を誇ったフランス陸軍も局地的に破れる状況が出てきました。
ナポレオンの覇権が絶頂を迎えるその時期です。
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by futuregate3 | 2006-11-10 13:04
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅡ)―第1回対仏同盟からエジプト遠征―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅡ)―第1回対仏同盟からエジプト遠征―
政治力学上の戦争を超えた、『国家の存在意義、歴史、文化』を賭けた、英・仏の戦いの開幕です。


 フランス革命は他のヨーロッパ列強にとり、無視できない事態でした。
フランスでは革命後一気に身分制度=封建制度の名残り、が基本的にない政治・社会体制に
一気に移行してしまったわけですから・・・。他のヨーロッパ諸国は当時、立憲君主制にしても、
啓蒙君主制にしても程度の差こそあれ、国家体制としては、基本的には封建制の流れの中にありました。
しかもフランスは当時ロシアに告ぐ人口を抱える大国でしたから、なおさらです。
そのフランスが封建・身分制度を廃止し、徴兵制を基礎とする150万に及ぶ陸軍を擁したのですから、
これはもう脅威以外の何ものでもありませんでした。
 フランスを対象とする包囲網が結成されました。1793年のことです。イギリス、オーストリア、
スペイン、プロイセンなどが参加しました。
             
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第1回対仏同盟の頃のナポレオン


 1796年ナポレオンは、この戦いでオーストリア軍と対峙するイタリア方面軍司令官としてヨーロッパの
歴史にデビューします。この年、ナポレオンは後のイタリア王国、当時のサルデーニャ王国をわずか
1ヶ月で攻略します。この年の年末から翌年にかけてイタリアでオーストリア軍を撃破し、オーストリアとの間に
講和条約を結び、対仏同盟を崩壊させます。この手際のよさは彼をフランス国内で国民的英雄に
押し上げました。

この後。彼の提案により当時、イギリスと同盟関係にあったオスマン帝国領エジプト、への遠征
が行われます。なぜエジプトかというと最大の敵「イギリス」を叩くにはインドとの連絡路を遮断する
必要があると考えたからです。
ここまでの段階では、イギリスとフランスの大規模な戦争はありませんでしたが、いよいよ両国の
大激突が始まります。

1798年ナポレオンの率いる50000人のフランス軍はエジプト遠征に出発しました。
陸上先頭ではフランス軍が有利に戦いを進め、マルタ島の占領、ピラミッドの戦いなどなどで勝利を収めて、
優勢でしたが、制海権を持つ強力なイギリス海軍にアレキサンドリア港沖の海戦で大敗してしまいます。
このときのイギリスの指揮官が、以後「ナポレオンの天敵」として立ちはだかるイギリスの片目・片腕の
海軍提督『ネルソン』
でした。この時の、彼の天才的戦術は以後フランス軍の『ネルソンコンプレックス=トラウマ』
になります。
彼はプロテスタントの貧乏牧師の子供、かたやナポレオンはフランスに征服されたコルシカ島の
貧乏貴族出身、戦いの主役もずいぶん少し前とは変わってきました。
当時のイギリスではもうすでに貴族階級出身でない軍幹部が出現し始めていました。

              
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世界三大提督といわれるネルソン提督


ところが、海上の制海権を押さえたイギリスがマルタ島を奪い返し、各国の通商権に制限を加えたため
味方同士であったはずのロシア、プロイセン、スゥエーデン、デンマークなどがこれに反対し、
武装中立同盟を結成します。例により政治力学上の「ゴチャゴチャ状態」が発生します。
特にデンマークはこれがきっかけでイギリスとの本格戦闘になり、コペンハーゲン沖の海戦が起こります。
この結果、中立同盟は、あっという間に解散します。以降、スゥエーデン、プロイセンはイギリスと仲直りし、
デンマークはフランスよりの立場をとるようになります。一方ナポレオンはエジプトに孤立し、
3年間に及ぶ、エジプト遠征は頓挫した状態で、終息を迎えます。

数々の戦争と騒乱を踏まえて、一歩、一歩、歴史の階段を上り、議会制度の発展を基礎として
『立憲君主制』にたどり着いたイギリスと、ある日突然というようなプロセスで、『封建絶対君主制』から
一気に「身分制度」「封建制度」のない民主的な革命政府を樹立したフランスとの戦いはまだまだ続きます。
これは両国のすべてを賭けた、私たち『日本人』には理解できない、まさに『国』と『国』との激突でした。
言い換えれば『竜虎の戦い』でしょうか。

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by futuregate3 | 2006-11-09 12:53
英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅠ)―ナポレオン戦争―

英国の戦争の歴史(ⅡⅩⅠ)―ナポレオン戦争―
厳密に言うと、ナポレオンはフランス人ではありません。


歴史の流れから言うと、ナポレオン戦争の前にフランス革命に飛ばなければいけないのですが、
このブログは戦争を通してのイギリスの歴史をテーマにしています。
そこでナポレオンの登場につながります。悪しからず・・・。

早速ですが、ナポレオンはどこの出身だかご存知ですか?そう、イタリアの西方の地中海上に浮かぶ大きな島、
「コルシカ島」ですよね。ここまではどなたもご存知だと思います。
この、「コルシカ島」-イタリア半島のすぐそばにあります。実はナポレオンの生まれる少し前まで、
イタリアの『ジェノバ』の領土だったんです。コルシカ島は、1769年にフランス領になったんですが、ナポレオンの生まれたのが、ちょうど1769年なんです。
あのイタリア=コロンブスもジェノバ人でした。でも彼の航海はスペイン王国の事業として行われました。ここでも『種』としての人種は意味を持っていません。ヨーロッパはひとつ、の実例でしょうか。
ですから、言い方ひとつで、ナポレオンもイタリア人ということになります。
           
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若かりし頃のナポレオンの肖像画


 コルシカの、貧乏貴族の子息であったナポレオンはフランスの士官学校に入ります。
背せきはひどく悪く、58人中42番でした。一番人気にない砲兵科に在学しました。
どうやら天才=ナポレオンというのも眉唾のようです。歴史を司った神の摂理か、16歳にして
士官学校を卒業してからの彼は時代の背景とラッキーさに支えられ、トントン拍子に出世します。
彼が軍人になって、6年目にフランス革命が始まります。ナポレオンがなにをしたかというと、
当時フランス革命の主流派『ジャコバン党』を支持するチラシを自分で作り配布しました。
何でこんなことをしたか、『ジャコバン党』の幹部に注目されるためです。彼は同時に人目を引く
パフォーマンスもしました。当時、王党派を支援する、イギリス軍に占領されていた軍港
「ツーロン」を彼らの手から奪い返したのです。
当時王党派と革命派に軍隊も分裂していましたから、貴族しかなれない将校は基本的に人材
不足状態でした。彼はいっぺんに注目を浴び、わずか25歳で革命軍の少将に上り詰めました。
と思ったら『ジャコバン党』が失権し、彼も一時逮捕されたりします。
ここからが運の強さというか、神の摂理というか、彼の前に一人の女性が現れます。
後のナポレオン婦人「ジョセフィーヌ」です。彼女は社交界の花形で革命政府の大物政治家の愛人でした。
時を同じくして、パリで起きた王党派の反乱を鎮圧し、大物政治家の後ろ盾もあり、革命軍の
国内軍司令官に復活します。その後、オーストリア軍と対戦すべくイタリア派遣軍総司令官として
歴史の表舞台に登場します。ナポレオン、26際のときです。
一介の、イタリア人だったかもしれない彼が、フランス人として歴史に浮かび上がってくるのは
このときからです。
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by futuregate3 | 2006-11-08 13:14
英国の戦争の歴史(ⅡⅩ)

英国の戦争の歴史(ⅡⅩ)―7年戦争―
プロイセンへの財政援助による、代理戦争です。


オーストリア継承戦争で、軍事的天才といわれた、「フィードリッヒ大王」を仰ぐ「プロイセン」は、
『一人勝ち』といわれるほどの領土を拡大しました。

オーストリア、フランス、スペイン、スエーデンなどはこのプロイセンの背力を何とか減じたいと、
プロイセンと対立関係にありました。
一方北米大陸。インド大陸では植民地の領有をめぐりイギリス。フランス間の戦いが激化していました。
このような状況の中、イギリス・プロイセン対、上記の諸国にドイツ諸侯国を加えた対立の図式が
出来上がりました。イギリスの財政援助があったとはいえ、直接戦ったのはプロイセン対他の
諸国連合になります。人口比で言うと、400万人対8000万人という、とてつもない状況の中での戦い、
だったにもかかわらず、フリードリッヒ大王の軍事的天才性がこの戦いを互角以上のものに
持ち込みました。1756年に始まった7年戦争です。
18世紀、ヨーロッパを巻き込んだ三回目の戦いです。プロイセンは戦い抜き、『ドイツ帝国』
つながっていきます。
 
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オーストリア軍を撃破し、近代機動線の先駆けとなった、ロイデンの戦いの後の
フリードリッヒ大王(中央に描かれた人物)。200kmを移動しての機動線でした。
激戦の様子が覗えます。


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フリードリッヒ2世(大王)


フリードリッヒ大王は、音楽・芸術を愛し、国内の各方面の改革に熱心で、質素な王室経営から
軍事力を飛躍的に伸ばしました。所謂、『啓蒙絶対君主』の一人とされています。
軍事的な天才という評価が先行していますが、軍事ばかりでなく、非常に才能豊かな人物で
あったようです。作曲家「バッハ」との親交は有名です。

 ところで、主人公、『イギリス』はどうしたかというと、戦争の後半には財政援助も困難となり、
経済的な疲弊の中から、同盟を解除し、戦線から離脱します。同様の事情は、ライバル、
フランスにもあり、それは、より深刻でした。イギリスの場合、この経済的疲弊が、北米植民地
に対する重税につながり、植民地の反感を招き、やがてアメリカ合衆国の独立につながります。
それでもイギリスはこの経験を生かし、カナダは英連邦にとどまらせ、インド帝国の創設にこぎつけ、
世界的視野では植民地を「しぶとく」広げていきます。フランスは、というとインド大陸の覇権を失い、
北米大陸の植民地をすべて失い、「ジリ貧状態」におちていきます。
次にはこれが、「フランス革命」、『ナポレオンの登場』と続いていきます。

 絶対王政のまま18世紀を迎えたフランスと、いろいろな騒乱。戦いの末に、混乱の中から、
立憲君主制まで漕ぎ着けていた、イギリスとの違いなのでしょうか。
そして19世紀のヨーロッパに登場する新たな大国「ドイツ帝国」の礎は一人の天才により作られました。

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by futuregate3 | 2006-11-06 16:33
英国の戦争の歴史(ⅩⅨ)―スペイン継承戦争―

英国の戦争の歴史(ⅩⅨ)―スペイン継承戦争―
17世紀のヨーロッパを覆う暗雲がここから、たちこめ始めます。

ヨーロッパ最強といわれたフランス軍の弱体化 フランス革命の序曲の始まりです。

=ダイアナ元皇太子妃のご先祖も登場です=


オーストリア継承戦争に先立つところ、40年、ヨーロッパの18世紀はこの戦争とともに幕を開けます。
この世紀は「ヨーロッパの危機」といわれた18世紀を象徴するように、フランス王朝とパプスブルク王朝
などに象徴されるヨーロッパの旧体制と、イギリス、オランダ、プロイセンを代表とする新興諸侯国家
などの新体制国家と、あるいは『新教=プロテスタント』と『旧教=カソリック』との宗教上の抗争が
縦・横に折り重なり、かなり複雑な様相を示しています。

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スペイン継承戦争で連戦連勝の大活躍をした、イギリスのマールバラ公、
「ジョン・チャーチル」は
ダイアナ元皇太子妃のご先祖様。・・・似てません?


問題は、スペイン王の突然の死去に伴い、フランス王の血脈がスペインの王位に就く可能性が出てきた
ところから始まります。つまり、フランス・スペインの一体化が進む可能性があったわけです。
ここで厄介なのは『血筋』ということであれば、ヨーロッパ中、どこにでもいたわけです。
「ヨーロッパの覇権争い」「プロテスタント国家とカソリック国家との争い」「跡目争い」
「パプスブルク家内の抗争」
など実に複雑な要素を含んでいます。

1713年、ユトレヒト条約により戦争は終結しますが、孤立の中戦った、スペイン・フランスは、
「継承問題」では主張が通ったものの、国力を大いに減じてしまうことになりました。
このことが
「王権神授説」を標榜し、「立憲君主国家」にひた走っているイギリスと逆の歴史の
ベクトルを目指した、フランス=ブルボン王朝の致命傷=フランス革命の序曲、につながっていきます。

余談ですが、この戦いで大活躍したイギリスのマールバラ公、ジョン・チャーチルはあの

ダイアナ元皇太子妃のご先祖様です

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by futuregate3 | 2006-11-03 15:05