<a href="http://futuregate.exblog.jp/">futuregate.exblog.jp</a>
タグ:戦争の歴史シリーズ ( 28 ) タグの人気記事
英国の戦争の歴史(ⅩⅧ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅧ)~オーストリア継承戦争(ⅱ)
ご存知ですか?
―『東インド会社』の『インド』は『インド大陸』の『インド』では、ありません―


■第一次シュレジェン戦争■オーストリア・ザクセン戦争■オーストリア・バイエルン戦争
■弟二次シュレジェン戦争■フランス・オーストリア戦争■オーストリア・スペイン戦争


1740年から8年間続いた、オーストリア継承戦争は北イタリアを含む中央ヨーロッパを中心に戦われました。結果的には火力を中心とした激しい戦闘の連続の割には、こう着状態が長く、
一進一退を繰り返し、プロイセン(後のドイツ帝国の基)の一人勝ちの様相がありました。
オーストリア継承戦争に含まれる戦いは上に記したようです。
 この戦争は前に書いたように植民地での戦争に波及します。北米では1744年英国領
ニューイングランドの植民地軍がカナダに侵入したジョージ王戦争が起きました。

―オーストリア継承戦争に参加し、領土を拡大したプロイセン周辺の勢力地図―
b0080738_11592968.jpg


これに呼応して、インド大陸では英仏間に戦いが起きます。この戦いの特色は両国の東インド会社同士の
いわば、『代理戦争』だったという点です。軍隊も会社の軍事部門としての位置づけでした。
戦い自体はフランスに有利に進みましたが、戦費に耐え切れず、フランスは印の大陸からの撤退を決めます。
これによりインド帝国の創設と英連邦入り、との流れが決まり、インドはアメリカと並ぶ、大植民地化しだします。


ところで、当時『インド』というと、インド大陸を指したわけではないのです。
ヨーロッパ、地中海沿岸いったいを除く地域をすべて「インド」と呼んでいました。
その辺の事情が今日も北米に西インド諸島がある理由です。

[PR]
by futuregate3 | 2006-11-02 12:03
英国の戦争の歴史(ⅩⅦ)-オーストリア継承戦争-

英国の戦争の歴史(ⅩⅦ)-オーストリア継承戦争-
オーストリア・イギリス・オランダ・・・

プロイセン・フランス・バイエルン・スペイン・・・の戦い

オーストリア継承戦争といいますが、実質的には『神聖ローマ帝国』
継承戦争なのですね。『神聖ローマ帝国』、1806年まであったんですね。

           


b0080738_14405726.gif
オーストリア大公マリア・テレジア


 パプスブルク家により現在のドイツを中心に諸国連合として細々と命脈をつないでいた神聖
ローマ帝国の跡目争いです。(古代ローマ帝国とは実質的に何の関係もありません。)
オーストリアを実効支配していたオーストリア王国=パプスブルク家の当主で、オースリアの女帝である
「マリア・テレジア」の継承に反対するフランスと、当事者オーストリアとの戦いに発展します。
イギリス・オランダ・ドイツ諸侯国家のプロイセン・バイエルンなどが敵味方に分かれ、絡んでいきます。
歴史の本によってはマリア テレジアの夫であるオーストリアの皇帝が当事者であるよう書かれていますが、
彼は養子で実質的な力はありませんでした。

 少し複雑ですが、当時のオ-ストリア・ドイツは法的には神聖ローマ帝国(実体はほとんどなく名目的)
ではありましたが、実効支配は、プロイセン、バイエルンなどの諸侯国家、パプスブルク家の
オーストリアが支配していました。

こうして1740年から8年間の間、ヨーロッパ全体を巻き込み戦いが始まりました。
ヨーロッパでの戦況は5年間で大きな戦いが6回もありましたが、一進一退でなんとなくフランスに
部の悪い形で終結します。同時進行でインド大陸、北米大陸も含めた地球規模の戦いに発展していきますが、
こちらのほうは大きな変動を起こしていきます。次回はインド大陸に目を移します。


それにしても、『 ”ローマ帝国皇帝” という呼称は何年もの間、国と自らのすべてを賭けて戦う価値のあること』
なのですよ。・・・彼ら、当時のヨーロッパの旧体制の人達にとっては・・・。
ヨーロッパで最も先進的な政治体制にあったイギリスが、外聞も無く、フランスとの政治の力学上の問題で
オーストリアと連合したのもよく分かりません。歴史上に見る、フランスとイギリスの仲の悪さは
すごいですね。

[PR]
by futuregate3 | 2006-11-01 14:46
英国の戦争の歴史(ⅩⅥ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅥ)
愈々、というかやっと、グレートブリテンの幕開けです。※IYOIYO(読めますか)


『清教徒革命』と『名誉革命』の2回の市民革命の経験を経て、イギリスはいよいよ議会に指導権を
シフトした成熟した「立憲君主制」に拍車がかかります。
ウイリアム3世の没後もう一人の共同統治者、メアリーの妹、アンが王位に就きます。
1707年、イングランドとスコットランドの合同法が議会で成立し、それまでの同君制度に
終止符が打たれました。
                 
b0080738_12134357.gif
アン女王


 この段階で『グレートブリテン』王国が成立します。この段階ではアイルランドはまだグレートブリテンには
含まれずに『グレートブリテンおよびアイルランド王国』という形でした。
 この時期に前後して17世紀初頭からスペイン無敵艦隊撃破による海上通商権の拡大を背景にして、
イギリスはポルトガル、スペインに遅れること100年余りで、「大航海時代」にはいって行きます。
ここからが植民地の拡大の時代の幕開けです。ヨーロッパでの戦争は相変わらず、間断なく行われており、
それのこうした形で北米大陸、インド大陸などでの勢力争いが激化します。
このあたりが以前に書いた北米植民地戦争になるわけです。
 どうにか歴史の縦糸と横糸が交わってきたと思います。これでも超はしょっています。
だんだんと現在のイギリスの原型が作られた時代に近づいていてきました。

 考えてみるとイギリスは異常とも云えるほど「ぐちゃぐちゃ」に戦争と内乱を続けてきましたが、
不思議なことに王室の系統維持には尋常でない努力を払ってきました。
 政治制度的にはこの段階でヨーロッパの先進国でありましたし、国内の抗争が「立憲君主制」
を生み出したとも言えるでしょう。
この後のイギリスの国家の軌跡を見ると、他のヨーロッパ列強に一歩先んじた政治体制と王室が
今日のイギリス国民の国に対するアイデンティティーの大きな要素になっているような気がします。

いよいよ現在の『ウインザー朝』につながる『ハノーバー朝』の始まりです。
今回は「はしょり」ましたが戦争は続いています・・・・。

[PR]
by futuregate3 | 2006-10-30 12:22
英国の戦争の歴史(ⅩⅣ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅣ)
私掠船 ②
―「海賊船」も「通商破壊活動」―と名前を変えれば立派な軍事行動になります。
~歴史の表舞台には、王侯や貴族出身でない人たちが登場してきます~


ドレークの経歴は・・・・・

(1)奴隷貿易に従事
(2)私掠船艦隊を組織して活躍
(3)イギリス海軍提督として「スペイン無敵艦隊」を撃破


・・・・・と書くとなにやら、胡散臭い人物像が
浮かびます。しかし前回記した破天荒ともいえる功績で彼は当為のイギリス社会の中で、
超スーパースターでした。
ただ、スペインとの海戦で、劣勢を一気にひっくり返したという『ドレーク神話』は少し眉唾の面も
あるようです。一説では艦隊の戦闘力ではイギリス艦隊が上回っていたと言う説もあります。
確かに火力・運動能力ではイギリス艦隊が上回っていたようです。
ただ、新しい戦術で、従来確立されてきた戦術に立ち向かったことは事実のようです。
当時の海戦はガレー船が主力でした。ガレー船の戦術は相手の船に激突接岸し、選挙若しくは
破壊するものでした。
これに対して、ドレークの取った戦術は火力の優勢を利用したヒット&ラン作戦でした。
どうあれ、彼の乗船「ゴールデン・ハインド」号は現在でもロンドンのロンドン。
ブリッジの駅から程近い場所で復元され、繋留・公開されています。ロンドン留学の際はぜひどうぞ。

         
b0080738_13305437.jpg
映画で復元された、ゴールデン・ハインド号
ロンドンには復元されたゴールデン・ハインド号が公開されています。


 でもこの私 掠船、何でもかんでも襲っちゃうわけではないんですね。
狙う相手は交戦状態にある敵国の艦船でした。・・・中には本当の海賊になっちゃう船もありましたが。
 通商破壊活動ということで言えば、第1次大戦以前には良く行われていたことらしいんですね。
わが帝国海軍にもあったらしいですよ。その意味ではそれ程いかがわしい仕事ではなかったようです。
むしろ当時、国に対するアイデンティティーを隠しての、大海原での活動に何か「義勇軍」に当てはまる、
ある種ヒロイックなロマンが感じられたのではないでしょうか。
軍事行動といっても、捕まれば捕虜としては扱われません。単なる、海賊として処分されてしまいます。
言い過ぎかもしれませんが、新大陸発見の航海、新航路を探しての大航海に一脈
通じるものがあったようです。

 当時、奴隷制度そのものが、まだ否定されていませんでした。今日でこそ完全に過去の
人類の歴史として扱われるこの制度も当時は人類にとり、最も古い伝統的な制度と見做されていました。
ましてインド隊利器。アフリカ大陸などとの奴隷貿易に仕事は、当時の最先端ビジネスの
ひとつだったと思われます。

 強力な海軍をもたないといった理由で、負ければスペイン軍のイギリス侵攻を許すと言う、
国家の存亡をかけた海戦を、素人提督のドレークにゆだねてしまう当時のイギリスに、柔軟な姿勢と
思い切りの力、勢いと言ったものを感じませんか。こうしてイギリスは世界中に植民地を持ち、
爛熟期に入っていきます。
此処からの時代に現在のイギリス文化の原型ができあがったと見るのが妥当でしょう。
今までの戦争と殺戮に明け暮れた歴史の流れと今日、皆さんのイメージするイギリスとが
ダブる訳がないですよね。
 ドレークも晩年は全てを燃えつくしたかのように、連戦連敗、最後は西インド諸島に遠征中に
赤痢でこの世を去りました。

[PR]
by futuregate3 | 2006-10-25 13:34
英国の戦争の歴史(ⅩⅤ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅤ)
『清教徒革命』から『名誉革命』へ、
現代のイギリスの原型、「近代市民社会」が形成され始めます。


英国史上初の無血革命=『名誉革命』=立憲君主制の確立です。


『クロムウェルに始まる清教徒革命』、『名誉革命』と繋がる立憲君主制への流れの中で、近代
イギリスの原型―市民社会の形成が見えてきます。
やっと私たちの知っているイギリスが垣間見えてきました。
歴史の主役は『王家』・『貴族』から『議会』・『内閣』へと移っていきます。

b0080738_1918829.jpg
■夫婦で王様■
ウイリアム3世(左)メアリー2世(右)


 1688年、議会と対立したジェームス3世を議会はフランスに亡命させ、変わって娘のメアリーと
その夫でフランスに抵抗するプロテスタントの英雄、オランダ統領のオレンジ公ウイリアム=ウイリアム3世を招き、
共同統治ということで各々を王と女王ということで、即位させました。
カソリック勢力の強いスコットランド・アイルランドでは激しい戦いもありましたが、イングランドでは
完全な無血革命でした。

 クロムェルによる一時的にせよ共和制への移行をへて、この『名誉革命』によりイギリスに
立憲君主制―『君臨すれど、統治せず』―が確立したと言えるでしょう。

 種としての国民とその国土としての『国家』という象徴的な『国家観』を持ちようがなかった彼らは
長い歴史の中での戦乱の歴史―「カオス=混迷」のなかから、「国家」に対するアイデンティティーを
こうして確立していきます。
イギリス人、イギリスと言う国がその文化・歴史の十分な理解なしで、少々の留学期間の滞在では、
理解しがたいことがお分かりいただけるのではと思うのです。

[PR]
by futuregate3 | 2006-10-24 19:27
英国の戦争の歴史(ⅩⅢ)

英国の戦争の歴史(ⅩⅢ)
―私 掠 船(しりゃくせん)~早い話、国家公認の海賊船です―
16世紀、イギリスは海賊船を使い、国家の1年分の国家の歳入に匹敵する収益を得たんです。


少し話が戻ります。『スペイン無敵艦隊』を撃破し、その後のイギリスの世界帝国への飛躍を
決定付けたイギリスの提督フランシス・ドレークは国家公認の海賊でした。
幾ら、16世紀のこととはいえ、1年間の国家の全収入に相当する金額を彼は一航海中の
海賊行為で稼ぎました。エリザベス女王が彼に投資した金額の実に20,000倍の金額だそうです。
イギリスはこの金額で、エリザベス1世の時代に急速に膨らんだ、その国家債務を帳消しに出来たほどです。
通算でも女王の投資金額に対する利益率は実に6,000倍でした。
 このことと、後の『スペイン無敵艦隊』の撃破とが、彼の人生を歴史に刻みました。
国家の財政の急場を救い、英国の世界帝国への足がかりを作ったのですから、これはもう
歴史のトピックスなんて物ではありません。変わった無法者=海賊がいたと言うような程度の
お話でもありません。
 このことを足がかりに、カソリック世界の盟主スペインに対しプロテスタント代表のイギリスが
戦いを有利に運ぶことになります。

b0080738_130144.jpg
ドレークの乗船した、ゴールデン・ハインド号の模型

1577年から約3年間にわたる、南北アメリカを中心としたスペイン艦船を対象とする海賊行為で稼いだ金額は数十万ポンド、エリ1ザベス女王に、献上した金額が約30万ポンドになります。
この金額だけで、当時のイギリスの国家歳入をはるかに凌ぐ金額でした。
 1577年にイギリスの港を出港し旗艦、ゴールデン・ハインド号(と言っても100tの小船ですが)
以下の5隻の艦隊はエリザベス女王からの出資金で編成されたものです。
彼はこの功績で『海軍提督』となり、叙勲されています。その後も女王の出資で私掠船艦隊が
組織されましたが、この時の利益を超えることはありませんでした。
             
b0080738_1314682.jpg
フランシス・ドレーク

フランシスコ・ドレークはイングランド南部でカルバン主義の牧師の子供として生まれ、敬虔な
クリスチャンでした。青年期になると、親戚のしていた奴隷貿易を手伝った後、25歳のときに
自ら船を調達し、海賊業=私掠船業(?)をはじめました。
そして34歳のときゴールデン・ハインド号の出航に繋がっていきます。
奴隷貿易にしても、私掠船にしても、何かいかがわしく思えますが、当時としては最先端の
仕事のひとつでした。

[PR]
by futuregate3 | 2006-10-23 13:01
英国の戦争の歴史シリーズ(ⅩⅡ)~クロムウェル②

英国の戦争の歴史シリーズ(ⅩⅡ)~クロムウェル②
―終身、護国卿 クロムウェル―



b0080738_9214648.jpg
ウエストミンスター宮殿前のクロムウェルの銅像―手に剣と聖書を持つ。


クロムウェルの「鉄騎隊の戦闘の記録は大きな流れだけでも、以下のようになります。

1642年、ヨーク西方のマーストン・ムーアの戦いで勝利に貢献。
1645年、イングランド中部のネイズビーの戦いで、国王チャールズ1世の軍に勝利。
国王はスコットランドに敗走。

議会派軍の新型軍,副司令官に就任
1648年国王『チャールズ1世』を捕らえる
1649年国王『チャールズ1世』を処刑
1649年~1651年、カソリックの支配するスコットランド、アイルランドに侵入、支配地域を広げる。
1649 年共和制に移行し、議会を指導
第1次英・蘭戦争を指導
1653年、終身護国卿に就任
1658年死去

以上をわずかに、 10年ほどの期間に走り抜けるように成し遂げました。
『護国卿』政治は独裁制に近く、そのことがクロムウェルのイメージを暗くしている感があります。
しかし「独裁」制、自体は不安定な政治状況の中で、周囲が望んだもので、クロムウェル自身は
好んではいなかったようです。複数回および安定を求める周囲からは、「国王」就任を要請されていますが、
消して受け入れることはありませんでした。経済政策的には、重商主義を推進し、
従来の公益による利潤の追求からより、実質的経済力の向上を推進しました。

クロムウェルの死後、再び「王制」に復古するとはいえ、一度、方向付けられた『共和制』への途は
歴史の大きな潮目となっていきます。同時にグレートブリテンの確立が今日のイギリスへ続いていきます。
今日私たちのいているイギリスの原型は、クロムウェルにより作られたと言っても過言ではないでしょう。
清教徒革命はやがて『アメリカ独立戦争』に繋がっていきます。

[PR]
by futuregate3 | 2006-10-16 09:27
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅹ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅹ)
『クロムウエル』の登場。~清教徒革命へ


 時代の流れに逆行する形で、ジェームス1世とその息子で、『ステュアート王朝』、2代目の
チャールズ1世は絶対王権の確立(王権神授説を信奉)を目指しました。
しかし当時のイングランドは成熟した議会を持ち、その議会を基盤とした有力な貴族の存在
エリザベス1世の下で飛躍的に発展した重商主義の影響と市場経済の発展、宗教改革後の
カルバン主義のプロテスタント教会などが力を持つなど
、絶対王政の確立などやや時代錯誤の面も
多かったようです。議会を敵に廻し、有力な貴族たちを敵に廻し、プロテスタントを敵に廻すと言った具合で、
実質的には『四面楚歌』状態でした。

1625年に父の死去により王位を継承した『チャールズ1世』は父親にも増してこの傾向が強かった様です。
特にフランス王室からカソリックの妃を迎え、また国教会による宗教統一を目論んだので、
プロテスタントとの緊張関係はどうしようもない所まで、高まっていました。そのような状況にあるにも拘らず、
彼は議会への攻撃を増していきました。
 1642年、反国王派の有力議員5名を逮捕した事件を「きっかけ」にして『王党派』と『議会派』
との内戦が始まりました。これが「清教徒革命」のはじまりです。
             
b0080738_11481215.jpg
スチュアート朝の第2代王、チャールズ1世


 当初は互角の戦いであった両派も、クロムウエル率いる鉄騎隊の活躍もあって議会派に有利に推移し、
スチュアート1世は2度の降伏と1度の脱走の後捕えられ、裁判により死刑が確定しました。1649年に公開のもとで、斬首の刑に処せられたのです。此処からはクロムウエルが「護国卿」
として国を指導しました。王様の首をはねたと言うことで「怖い人」のイメージが強い彼ですが、
教養人であり、原理・原則的なプロテスタントで、評価出来る部分も多い人です。この時点で
実質的にはイングランド、スコットランドの範囲で、名目的にはアイルランドも含めて、グレートブリテンが
形成されたと言ってよいでしょう。
今からおよそ、400年前のことです。

[PR]
by futuregate3 | 2006-10-14 11:52
国の戦争の歴史シリーズ(Ⅸ)

国の戦争の歴史シリーズ(Ⅸ)
―イングランド、スコットランド、同君連合の幕開け―

ジェームス1世とジェームス6世とは同じ人物なんです。


 子供のいなかったエリザベス1世は、その死の直前に後継者として、スコットランド国王の
ジェームス6世を指名します。ジェームス6世はエリザベス1世により亡命先のイングランドで処刑された、
スコットランドの元女王スチュアートメアリーの子供でしたから話はこんがらがってきます。
ただ彼はエリザベス1世の遠い血脈ではありました。
 ここに、イングランドとスコットランドの同君連合が成立します。

b0080738_18403664.jpg
       
2つの名前を持つ王、『ジェームス1世=ジェームス6世』


これを受けて、ジェームス6世はイングランド王に即位します。スチュアート王朝の幕開けです。
このことは、両国の統一王朝が出来たことを意味しません。
あくまで同じ人物が2つの国の王になったと言うことです。行政機能は各々が独自に持っていました。
その証拠に、イングランド王としての名前はジェームス1世でした。『スチュアート王朝』の幕開けです。

イギリスの歴史の中に、不思議な『神のご計画』としかいいようのない、大きな流れを見ます。
ひとつは『百年戦争』でのイギリスの敗退、そしてひとつが、このジェームスの即位です。
いずれも大きな歴史の流れの中で、長期的な味方では、イギリスを大いに利したターニングポイントに
なっています。前者は必要以上の絶対王権の強大化を防ぎ、イギリスの議会制度の確立とともに国力の
引き上げを実現し、後者は表現は適切でないかもしれませんが、『百年戦争後半から紛争の絶えなかった』
スコットランドの吸収合併の引き金に繋がりました。
このことは次回以降に触れたいと思います。
歴史は『清教徒革命』から『アメリカ独立』に向けて大きなうねりを見せます。
[PR]
by futuregate3 | 2006-10-13 18:47
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅷ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅷ)
少し先を急ぎます。テューダ王朝、最後の王様、エリザベス1世の登場です。

     
b0080738_11285353.jpg
「私は王国と結婚したのです」
-エリザベス1世-


 エリザベス1世はスペインの『無敵艦隊』を撃破し、戦乱と内乱に明け暮れた結果、疲弊しきっていた
イギリスを、「大英帝国」として世界に冠たる「世界帝国」に押し上げました。
女王メアリーの後を継いで王位に即位し、テューダー王朝最後の王位に就きました。1534年のことです。
当時のスコットランド王国の女王の名も、メアリー1世でした。


国内的・国外的ににも混乱を極めた時代背景での登場
 当時のイギリスは、このブログではまだ触れていませんが、ブリテン島内における、ウエールズ、
スコットランドとの征服と抵抗の戦い、プロテスタントとカソリックの抗争も含めて、色々な意味で
「一杯、一杯」の状態でした。事実エリザベス自身が、即位に先立つ何年間をロンドン塔に幽閉
されていたぐらいですから・・・。

国教会・プロテスタント・カソリック
 父親のヘンリー8世により、自らの離婚―再婚を正当化する上で作られた『英国国教会』が原因となり、
従来の国内外の騒乱に加えてプロテスタントとカソリックの争いに国教会を交えた宗教の不安定さが重なり、
イギリスは「ハチャメチャ」な状況下にありました。彼女は25歳のとき即位しましたがその直前まで
義理の姉であるメアリー1世によりロンドン塔に捉えられ、その死とともに王位に就いたのです。
理由は彼女のもつ王位継承権の問題と彼女がプロテスタントとして育てられたことにあると
言われています。

カソリック勢力の制圧-国内も安定化
 彼女自身はプロテスタントとして育てられたのですが、女王に即位した後は、父親の後を踏襲し、
法王庁と完全に断絶しました。法王庁のこれに対して波紋と言う形で応酬しました。
国内的には北部に多かったカソリック諸侯を徹底的に弾圧しました。
また積年のイギリスにとっての問題に彼女は2つの大きな足跡を残します。
一つはイギリスに亡命していた前スコットランド女王メアリースチュアートを処刑することで
国内のカソリック勢力の力を完全にそいだこと、一つは自分の後継者に
スコットランド国王ジェームス6世(メアリースチュアートの息子)を指名したことです。
このことについては別にご説明したいと思います。

ピューリタン革命への伏線
これにより国内の安定は確保されましたが、教会政治において、カルバン主義が支配的だった
プロテスタント教会が長老制を敷いていたのに対して、国教会はローマ教会同様に監督制を
敷いていたことなどこの後のこれまた高校世界史の定番、「清教徒革命」、「クロムウエルの登場」
につながる伏線は敷かれていました。

スペイン無敵艦隊の撃破、世界帝国への途
とりあえずは、エリザベス1世の登場により、イギリス国内は安定期に入ります。
国内の安定を待って、フランス・スペインとの対立を迎えます。
フランスとはユグノー教徒の氾濫を支援することによる、スペインとはネーデルランド(当時のオランダ)
の支配権を巡り対立します。
スペイン軍のイギリス直接侵攻を目前とする時期にドーバー海峡でのスペイン無敵艦隊との海戦に
歴史的大勝利を収めるのです。此れにより世界帝国としての大英帝国-連邦への歩みが始まります。
[PR]
by futuregate3 | 2006-10-12 11:33