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英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅷ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅷ)―薔薇戦争=そのⅡ―
―敵,味方離合集合を繰り返した、血みどろ30年間にわたる、内乱―
―「ランカスター朝」、「ヨーク朝」、「テューダー朝」と続く,大内乱―


 シエクスピアの8本の史劇にも取り上げられているように、ランカスター家とヨーク家を中心に、
30年間にわたり「血で血を洗う」内乱が続きました。
「裏切り」あり、「陰謀あり」、「何でも」あり、『陰惨を極めた』30年間です。一つ一つ歴史の事実を追っていっても、
皆さんが混乱するぐらいに目まぐるしいので、事実を追う仕事は他の場所にお任せするとして、「陰謀」あり、
「画策」あり、「裏切り」あり『戦いに明け暮れた』、30年間は、王位の継承も「ランカスター朝」と「ヨーク朝」との間で
まるでキャッチボール状態でした。繰り広げられた権謀術策の限りを尽くした、貴族たちの人間模様は
シエクスピアの序曲にぴったりのテーマであったでしょう。

闘争の密度から言うと『百年戦争』をはるかに、凌ぐものがあった様です。事態をより複雑にしたのは、
イングランドの被征服地であったスコットランド、ウエールズなどの状況は必ずしもイングランドと同じではなく、
両勢力の盛衰も多少のタイムラグが存在していたことです。ただ方向性としてはヨーク系に
有利に推移していたのですが・・・・。
             

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↑ヘンリーテューダー『へンリー7世』


しかしこの戦いも思わぬ方向で終結します。当時、暗殺を恐れて、フランスに亡命していた
『ランカスター家』最後の男子継承者である「ヘンリーテューダー」がイングランド国内の混乱に乗じて
イングランドに侵入し、戦いの後、1509年「ヘンリー7世」として即位し、『テューダ朝』を開きました。
ヘンリー7世の母親の問題で、彼には正統な王位の継承権がないとの主張があり、それを理由に
15年近くにもわたり内乱が相次ぎ、国内は混乱しましたが、「へンリー7世」が結局辛抱強く、
王権を確立し、テューダー王朝のもとを確立しました。

 日本の戦国時代どころの話ではないですよね。でもこれは全体のほんの一部です。
スコットランド、ウエールズを巡る抗争・戦いにはまだ触れていません。
戦いがダラダラといつまでも、続きます・・・・。どうです。イギリスのイメージが少し変わってきましたか?
本当に「血なまぐさい国」だったんですよ。

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by futuregate3 | 2006-10-10 11:08
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅶ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅶ)いよいよ登場です。「ジャンヌダルク」
―彼女は正式に認められたローマンカソリックの聖人なんです―
~彼女を最初に再評価したのはあのナポレオン~


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 イングランド軍に捕らえられ,魔女として火刑にかけられた、あの『ジャンヌダルク』は近世まで
伝承・伝説の中の人でした。彼女を歴史上の伝承の中から蘇らしたのは、あの「ナポレオン」でした。
彼は自らの王権を正当化する意味からも彼女を「国民的英雄」として取り上げ、此処から彼女が歴史の
表舞台に登場するきっかけを作ったのです。

 1920年にはローマ法王ベネディクトゥス15世によりローマンカトリックの聖人に列せられています。
私たち、プロテスタントの立場から言うと彼女は神の啓示を受けた預言者であったのかもしれませんが、
歴史的に果たした役割は非常に大きかったようです。

 何度も何度も書きましたが、『百年戦争』を戦った英・仏両軍に国家意識はまだなく、
本家争いをベースとした覇権争いでした。当時『百年戦争』は英・仏統合の方向で終戦を迎えよう、
と言う政治的動きの中にありました。事実、形の上だけですがイングランド王がフランス王に即位する
と言う形まで整っていました。


 もし彼女がいなければイングランド・フランスをまたぐ形で絶対王政が出来上がり今日の自由主義の目も
詰まれていたかもしれないのです。当時のイングランド・フランス領王室も今のどこかの国と同じく
男系継承か女系継承かで、「喧々諤々(けんけんがくがく)」の騒ぎでした。
イングランド王室もフランス王室もともに、フランスの『カベー王朝』の血脈であり、前者が女系、後者が男系と
言うことだったようです。いずれにしてもフランス王室はこの時点で、風前の灯だったといえるでしょう。

 此処から、シャルル7世の即位、イングランド軍の撤退までの大逆転劇を可能としたのが『ジャンヌダルク』で
あったことはどうやら間違いのない事実のようです。王室の私生児説から始まり、彼女については
「漫画」から『映画』まで様々のメディアで詳しく紹介されています。ここではそれらの譲りたいと思いますが、
とにかくも、
『百年戦争』はこうして幕を下ろします。

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by futuregate3 | 2006-10-09 12:02
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅵ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅵ)
―今度は内部抗争です。その名も薔薇戦争。―
でも,これは後世の創作、当時から、そのように呼ばれていたわけではありません。


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↑ランカスター家の紋章

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↑ヨーク家の紋章


『百年戦争』のさなか、イングランドでは一大内乱が起きます。百年戦争をはじめたエドワード3世の孫に当たる、
リチャード2世の時代です。これがやがて1400年代半ばからの『薔薇戦争』に繋がって行きます。
この時の事件はイングランド王朝の重鎮で親戚筋のランカスター公家の勢力を削ごうと、リチャード2世から
仕掛けたものでしたが、反対にランカスター家の跡取り「ボリンブロク」の反撃にあい、王を退位させられました。
ボリンブロクはリチャード2世に変わり、ヘンリー4世として即位しました。1399年のことです。
此処で王朝は変わり、『ランカスター王朝』になります。

一方『百年戦争』は、と言うと、一進一退を繰り返した戦況も1453年にはイングランド軍はフランスから
完全に駆逐され、その終結を迎えます。この最終局面であの『ジャンヌ・ダルク』も登場しますが、
このお話は次回とさせていただきます。

『百年戦争』後期と平行してイングランド内部の内乱は続きます。フランスでの戦況の悪化とともに、
「ランカスター朝」の基盤は揺るぎ、同じプランタジネット朝の傍流である『ヨーク家』が王権に反旗を翻し、
『ランカスター王朝』対『ヨーク家』の内乱が30年ほど続くことになります。1455年のことです。

『薔薇戦争』は『百年戦争』終結の2年後に始まりますが、それまでのイングランド国内の内乱状態は
『百年戦争後半』の50年ほどは完全に重なっています。
イングランドは、当時、右を向いても、左を向いても、『戦いの明け暮れ』だったんでしょうね。

今日言われる「紳士の国イギリス」なんていわれるイメージとは,「チョット』違っていたようです。
両家の紋章から、「薔薇戦争」と言うと何かロマンティックな感じもしますが、これは構成の創作。
ただの親戚同士の権力争いで、「ロマンも何も」あったものではありません。

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by futuregate3 | 2006-10-08 12:33
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅴ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅴ)
―100年間にも及ぶ戦いの中で、イングランド人にもフランス人にも
はじめてそれぞれに国家意識が芽生えました―


『百年戦争』と言っても、100年間、毎日毎日どこかで戦争が行われていたわけではありません。
休戦期間もありましたし,ただ、「ダラダラと」戦争状態が続いていたのです。
同時にこれはもう何がなんだか分からなくなるので詳しくは述べませんが、イングランドはこの時期並行して、
対ウエールズ、対スコットランド制覇の戦いを行っていました。
また同時にイングランド内部の内乱・内紛も時期的に重なります。
            

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↑エドワード黒太子


 開戦当初はこの戦争をはじめた「エドワード3世」の子供のエドワード黒太子の連戦連勝もあり、
イングランド軍が圧倒的に有利で、南フランスの大半を手中に収めました。名前は忘れましたが、
フランス王が捕虜として捕らえられる事態も、おきました。
しかし、やがて膠着状態の後、イングランド内部での内紛、内乱の時期とも重なり、フランス軍が巻き返し、
一進一退を繰り返しました。
興味のある方は詳しく調べてみてください。此処では『戦争史』のお勉強をするつもりはありません。

大事なことは
この戦争を通してイングランド、フランスともに国家、国民としてのアイデンティティーを
確立できたということ。
そして―
現在の両国の国境線が確立した。と言うことです。此処から独自の文化の発展が始まります。

約 500年前まで、多分イングランドもフランスも多くの部分で同じようなところがあったと思うのです。
イングランドの指導者であったフランス人貴族あるいは、彼らについて大陸から移住してきた人々は、
この戦争を通してイングランドに住む者はイングランド人としての自分を意識し、フランス人にはイングランドは
別の国と言う意識を初めて持てたのではないでしょうか。
国境線が明確になったと言うことは、その時点でフランス人とイギリス人の民族性・文化・論理・
感情が始めて独自のベクトルを持ち始めたと言うことです。

 イギリスではこの後まだまだ国内での様々な抗争が続きます。イギリスとフランスはお互いに
アイデンティティーを持ち独自の方向に進み始めたのは、この500年ぐらいなのです。
一方は統一の方向に動き、一方はそれに対し独立性を勝ち取るべく動き、それが結局、前者の方向に
収束していったのがせいぜいこの100年から、200年だとしたら、無理くり
「UNITED KINGDOM」と言うのもよく理解できますよね。

昨今、北海油田関連の収入がスコットランドに流入し、その経済力を押し上げています。
それと平行してスコットランド独立の気運が各方面で、様々に盛り上がっています。
それが、どのようなことを意味するのか、考えてみても良いかもしれません。イギリスでも近い将来、
「UNITED KINGDOM」と称さなくなる日が来るかもしれません。

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by futuregate3 | 2006-10-07 12:06
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅳ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅳ)
―近親憎悪的抗争、100年戦争への道。あのジャンヌ・ダルクもいよいよ登場―


イギリスが、完全に「フランス人が」、「フランス人により」、「フランスのために」、ではなく
「自分たちのために」作った、作られた国であることは言語的な考察からもお分かりいただいたと思います。
この間の英・仏両国の抗争には、何か「仁義なき戦い」を彷彿とさせるものがあります。
かつての子分が、もと親分の力を凌ぐ勢力となり親分に抗争を挑んでくる、『仁義なき戦い』そのものです。
           
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プランタジネット王朝の開祖ヘンリー2世


 イングランドの力が急速に伸びたことがその大きな原因でした。イングランドは長い時間の流れの中で、
出来上がった国ではありませんでした。侵略王朝ですから、土地と住民を征服・支配することが第一の目的であり、
封建制の基本である功績に応じて部下に領地を与えるための国土があらかじめあったわけではないので、
侵略する力が強く、封建制が発展していく過程を省略して、始めからある程度のレベルで機能していた
ということです。


 どこかの国のどこかの話とよく似ていると思いませんか?「ウイリアム1世』に始まる、『ノルマン王朝』、
『プランタジネット王朝』は日本の織田信長とその家臣団とよく似ています。
「私、作る人」「私、食べる人」という階層的ヒエラルキーが確立していた集団を想像しただけで
その強さが、うかがい知れます。封建制度自体が強力な戦闘集団を作る手段でもあるわけですから、
当時のイングランドの軍事組織は「めちゃめちゃ」強かったといえます。

 ノルマン王朝が一旦途絶えた後、その血筋を引くフランス人貴族のアンジュー伯アンリがフランス国内に
ピレネー山脈から南フランスにいたる、広大な領土を持ったまま、イングランド国王に即位しました。
このことがノルマン王朝以来のイングランド王家のフランス国内の領土所有の問題に拍車をかけたようです。
1154年のことです。いずれにしても上の領土にノルマン公領を加えると無視できない領土になります。

彼は「ヘンリー2世」としてプランタジネット王朝の開祖となりました。
この時点で彼は自分のことをフランス人と考えていたようで、フランスの内ゲバ、内紛の色彩が強かった様です。
現在の日本で言えば関西以西がよその国の領土に突然なるくらいの騒ぎでした。

 さてこの領土問題をめぐり、歴史学者によれば、1377年におきたといわれる、あのジャンヌ・ダルクも登場する、
『100年戦争』の時代が始まります。

 プランタジネット王朝は1399年まで続きましたが、後を継いだ王朝もその系統と言われていますので、
その流れは1500年代まで続いたことにます。当時ヨーロッパは既に「十字軍」の時代でした。
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by futuregate3 | 2006-10-05 09:28
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅲ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅲ)
―英語の語彙の半分以上はフランス語を起源とするんだそうです―
国の標語 : Dieu et mon droit
(:神と私の権利)

           
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 上記の標語はフランスの「国の標語」ではありません。イギリスの「国の標語」なのです。
でもこれフランス語ですよね。どうしてこんな事になったんでしょうか。
それは次のような理由からと考えられます。
征服王ウイリアム1世の開いたノルマン王朝は、完全なフランスからの侵略王朝でしたから当時のイギリスの
公用語はフランス語でした。イングランド国内でも長い間フランス語が使われていました。
結果、在の英語の語彙の5割以上がフランス語を起源とするものとなったということは、
言語学上の常識になっています。

 この後のイギリスの歴史は、ひとつはフランスとの関係を横糸に、ひとつは国内のウエールズ、
スコットランドとの関係
を縦糸として目まぐるしく展開していきます。
そして、その影に常にキリスト教の影響が存在しています。
一例をあげますと、高校の世界史の教科書に必ず登場する「100年戦争」
フランスとの関係の上に位置づけられます。

ここでは大混乱を避ける為もあり、まづ「フランスとの関係」を軸としてお話を進めて行きます。「ウイリアム1世=ギョーム1世」の開いたノルマン王朝
微妙なところのある王朝でした。
立場上、彼はフランス王と対等な関係である独立王朝であるイングランド王であると同時に、ノルマン公としては
フランス王の臣下の立場にありました。このことが以後のフランスとイングランドとの抗争に関係してくるわけです。

ノルマン王朝は4代で絶えましたが、以降のイングランド王朝は「ウイリアム1世」の血脈の中に
保たれ、今日に至っています。
その後、フランスの伯爵家から縁続きの王がイングランド王に招かれプランタジネット王朝が成立しましたが、
この王朝はノルマン公領に加え伯爵家領もフランス国内に持っていたので、フランスとの関係は
ますます悪くなっていきました。

此処でまたまた高校世界史の定番の登場です。議会による王権抑制策のシンボルである、
あの「マグナ・カルタ」を認めさせられたイングランド王「ジョン」はこのプランタジネット王朝の第3代の王様です。
この時点で1215年のことです。イギリスでは日本の鎌倉幕府のころ既に議会の台頭が見られたのですね。
この後、イングランドはウエールズの征服に取りかかりますが、それを挟んだ時期に、
フランスとの百年戦争に入ってきます。

今日のテーマは世界共通語の英語もフランス語との関わりの中で今日に至っているのだということです。
でもイギリスの「国家の標語」が今もフランス語のままなんて、知らなかったでしょ。

「百年戦争」と言い、「マグナ・カルタ」と言い、なんだか、高校の授業みたいになってきました・・・。
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by futuregate3 | 2006-10-02 11:20
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅱ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅱ)
―現イギリス王室の開祖はフランス人だったの知ってますか?―



「今のエリザベス女王のご先祖様はフランス人でした。」

                
   
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ウイリアム1世

当時のイングランドはアングロサクソン人、バイキングデーン人などが入れ替わり支配権を握り、
覇権争いを繰り返していました。かつてガリアと呼ばれていた、最後の「ヨーロッパの辺境」イギリスを国家として
統一したのは、有名な「征服王ウイリアム」でした。

ノルマンディー公の庶子である彼は、フランス王の下で臣下としてノルマンディー公の任にありましたが、
母親もフランス人の所謂庶民の娘で、れっきとしたフランス人でした。
イングランドの王位継承に関する内紛に介入し、6000人の部下を率いて、ドバー海峡を渡り、
イングランドに侵入しました。苦戦続きでしたが、勝利し、イングランドに封建制の支配権を確立したのです。

国内の内紛に乗じた形の実質的には何も根拠のない進入と言われています。
特に明確な勝利の確信があっての進入ではないようです。イギリスでは「ウイリアム」で通りますが、
フランス人ですから、フランス語読みに「ギョーム1世」の方が正確なようです。

 兎にも角にも、西暦1066年彼はまんまと、イングランド王に即位しました。
わが国の「騎馬民族」征服説のような仮設の世界の話ではなくではなく、堂々の渡海侵略でした。
今日であれば国連決議案の下、国際的大問題になるようなことでした。

 此処からイギリスの国家としての歴史は始まります・・・・。イギリスを征服し、統一国家を作ったといっても、此処ではまだイングランドだけの話なんです。乞う次回!!
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by futuregate3 | 2006-10-01 20:51
英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅰ)

英国の戦争の歴史シリーズ(Ⅰ)
―スコットランド人を「ENGLISH,BRITISH」と呼ぶのはタブーなんですよ。知ってました?―

  

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連合王国(United Kingdom)について
英国とかイギリスという呼称は「通称」で、正式には「連合王国」正確に言うと・・・・
「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」 が正しい呼び方になります。
「グレートブリテン」は、イングランド、ウエールズ、スコットランドの3カ国を指します。外交権こそないものの、
独自の国旗、国家、議会を持つレッキとした国家です。
うかつにスコットランド人やウエールズ人を「ENGLISH」「BRITISH]と呼ぶことができないほど、
各々の民族的アイデンティティーには強いものがあります。
彼らを「ENGLISH」と呼ぶことは、絶対に避けてください。「BRITISH」と、呼ばれることも彼らは嫌います。
SCOTTISHであり、WELSHなのです。


この複雑さ、分かりにくさは、ほんの今から70年前までの複雑な「英国」の歴史の流れの結果といえます。
アイルランド独立運動は単に過激派の人々の政治活動だけではないようです。

一つにはイングランドによる、覇権の確立とそれに対する、独立の動きのぶつかり合いにより生じた歴史の流れ、
一つには、宗教改革以降の宗教を底流とした,大きな歴史のうねりの中での事柄、を見ることが出来ます。
いずれの流れも「戦い」という形を取りました。


 「古い伝統と文化に培われた歴史の国=英国」なんて言うのは、いささか、「観光業のキャッチ」
に聞こえてきます。もっと、もっと生々しく濃密に、あや織りのように、練り上げられた歴史の一端を知ることは、
英国及び英国人を正しく認識する上で重要だと思います。では次回以降のシリーズをお待ちください。
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by futuregate3 | 2006-09-29 11:39