―今度は内部抗争です。その名も薔薇戦争。― でも,これは後世の創作、当時から、そのように呼ばれていたわけではありません。 『百年戦争』のさなか、イングランドでは一大内乱が起きます。百年戦争をはじめたエドワード3世の孫に当たる、 リチャード2世の時代です。これがやがて1400年代半ばからの『薔薇戦争』に繋がって行きます。 この時の事件はイングランド王朝の重鎮で親戚筋のランカスター公家の勢力を削ごうと、リチャード2世から 仕掛けたものでしたが、反対にランカスター家の跡取り「ボリンブロク」の反撃にあい、王を退位させられました。 ボリンブロクはリチャード2世に変わり、ヘンリー4世として即位しました。1399年のことです。 此処で王朝は変わり、『ランカスター王朝』になります。 一方『百年戦争』は、と言うと、一進一退を繰り返した戦況も1453年にはイングランド軍はフランスから 完全に駆逐され、その終結を迎えます。この最終局面であの『ジャンヌ・ダルク』も登場しますが、 このお話は次回とさせていただきます。 『百年戦争』後期と平行してイングランド内部の内乱は続きます。フランスでの戦況の悪化とともに、 「ランカスター朝」の基盤は揺るぎ、同じプランタジネット朝の傍流である『ヨーク家』が王権に反旗を翻し、 『ランカスター王朝』対『ヨーク家』の内乱が30年ほど続くことになります。1455年のことです。 『薔薇戦争』は『百年戦争』終結の2年後に始まりますが、それまでのイングランド国内の内乱状態は 『百年戦争後半』の50年ほどは完全に重なっています。 イングランドは、当時、右を向いても、左を向いても、『戦いの明け暮れ』だったんでしょうね。 今日言われる「紳士の国イギリス」なんていわれるイメージとは,「チョット』違っていたようです。 両家の紋章から、「薔薇戦争」と言うと何かロマンティックな感じもしますが、これは構成の創作。 ただの親戚同士の権力争いで、「ロマンも何も」あったものではありません。 #
by futuregate3
| 2006-10-08 12:33
―100年間にも及ぶ戦いの中で、イングランド人にもフランス人にも はじめてそれぞれに国家意識が芽生えました― 『百年戦争』と言っても、100年間、毎日毎日どこかで戦争が行われていたわけではありません。 休戦期間もありましたし,ただ、「ダラダラと」戦争状態が続いていたのです。 同時にこれはもう何がなんだか分からなくなるので詳しくは述べませんが、イングランドはこの時期並行して、 対ウエールズ、対スコットランド制覇の戦いを行っていました。 また同時にイングランド内部の内乱・内紛も時期的に重なります。 開戦当初はこの戦争をはじめた「エドワード3世」の子供のエドワード黒太子の連戦連勝もあり、 イングランド軍が圧倒的に有利で、南フランスの大半を手中に収めました。名前は忘れましたが、 フランス王が捕虜として捕らえられる事態も、おきました。 しかし、やがて膠着状態の後、イングランド内部での内紛、内乱の時期とも重なり、フランス軍が巻き返し、 一進一退を繰り返しました。 興味のある方は詳しく調べてみてください。此処では『戦争史』のお勉強をするつもりはありません。 大事なことは ①この戦争を通してイングランド、フランスともに国家、国民としてのアイデンティティーを 確立できたということ。そして― ②現在の両国の国境線が確立した。と言うことです。此処から独自の文化の発展が始まります。 約 500年前まで、多分イングランドもフランスも多くの部分で同じようなところがあったと思うのです。 イングランドの指導者であったフランス人貴族あるいは、彼らについて大陸から移住してきた人々は、 この戦争を通してイングランドに住む者はイングランド人としての自分を意識し、フランス人にはイングランドは 別の国と言う意識を初めて持てたのではないでしょうか。 国境線が明確になったと言うことは、その時点でフランス人とイギリス人の民族性・文化・論理・ 感情が始めて独自のベクトルを持ち始めたと言うことです。 イギリスではこの後まだまだ国内での様々な抗争が続きます。イギリスとフランスはお互いに アイデンティティーを持ち独自の方向に進み始めたのは、この500年ぐらいなのです。 一方は統一の方向に動き、一方はそれに対し独立性を勝ち取るべく動き、それが結局、前者の方向に 収束していったのがせいぜいこの100年から、200年だとしたら、無理くり 「UNITED KINGDOM」と言うのもよく理解できますよね。 昨今、北海油田関連の収入がスコットランドに流入し、その経済力を押し上げています。 それと平行してスコットランド独立の気運が各方面で、様々に盛り上がっています。 それが、どのようなことを意味するのか、考えてみても良いかもしれません。イギリスでも近い将来、 「UNITED KINGDOM」と称さなくなる日が来るかもしれません。 #
by futuregate3
| 2006-10-07 12:06
~英国人にはアジア人の血が流れています・・・「もービックリ」~ 同じ島国でも、日本とイギリスとでは国家民族の形成の過程が全然違うようです。 日本の場合、縄文人に弥生人それにせいぜい女真人が混血して現在の日本人が出来上がっているようです。 イギリスの場合どうかと言うと、次のようなことが分かっています。紀元前の時代、最初にイギリスに 定住したのがアジア人種のケルト人です。ケルト人はもともとは中央アジアにいて、その後、ヨーロッパの中央、 ドナウ川やライン川流域に住んでいたようですが、紀元前末期に西方に大移動し、 ブリテン島にまでひろがったようです。 その後、紀元後に入ると「ガリア戦記」でも知られているようにローマ帝国の進入・支配を受けるようになります。 現在でもイングランド北部にローマの皇帝がAD1年ごろに築いた長城の遺跡が残っています。 イングランド北部がローマ帝国の北限の地のようでした 4世紀にはいると、いよいよノルマン民族の大移動が始まります。5,6世紀にはイギリスにもノルマン民族の 支族であるサクソン人、アングル人、ジュート人が侵入し始めます。お馴染みの、現在のオランダ付近にいた、 アングロサクソンによるイギリス支配です。アイルランドからはスコット人がスコットランドへ、 スコットランドからはビクト人も侵入してきました。このアングロサクソン人と戦ったのが伝説の「アーサー王」です。 大体、6世紀のことです。アングロサクソン人はイングランド王国を打ちたてました。 スコットランドにはビクト人とスコット人によりスコットランド王国が出来上がりました。9世紀のことです。 その後、1019年の所謂バイキング=デーン人によるイングランド制覇を挟み、このブログで書いてある、 「ノルマン・コンケスト=ノルマン軍の侵入」が1066年にはおこります。その後「百年戦争」「薔薇戦争」と続き、 16世紀のウエールズ統合、17世紀のスコットランド統合、さらには19世紀のアイルランド統合を経て、 今日のUKに至っています。これに加えて王政改革の動き、宗教改革に関わる騒乱が加わります。 まさに戦争・内乱の動きであると同時に、支配民族も目まぐるしく変わります。 我々は一口でイギリス人と言っていますが、ケルト人系、ローマ民族系、アングロサクソン系。 ビクト人・スコット人系、デーン人系、アイルランド人系、フランス系ノルマン人系といった具合に、 東西南北方向からの、複合民族なのです。イギリス人と呼ばれている人々はヨーロッパでも、 極めて特殊な民族形成を経た人々なのです。我々は近世にいたって確立された、「世界帝国」の末裔としての イギリス人を強くイメージしています。 イギリス人の国民性について触れている文章を良く見ますが、いまひとつ「ピン」と来ません。 その理由のひとつにこういった歴史の背景もあるのではないでしょうか。 #
by futuregate3
| 2006-10-06 12:55
―近親憎悪的抗争、100年戦争への道。あのジャンヌ・ダルクもいよいよ登場― イギリスが、完全に「フランス人が」、「フランス人により」、「フランスのために」、ではなく 「自分たちのために」作った、作られた国であることは言語的な考察からもお分かりいただいたと思います。 この間の英・仏両国の抗争には、何か「仁義なき戦い」を彷彿とさせるものがあります。 かつての子分が、もと親分の力を凌ぐ勢力となり親分に抗争を挑んでくる、『仁義なき戦い』そのものです。 イングランドの力が急速に伸びたことがその大きな原因でした。イングランドは長い時間の流れの中で、 出来上がった国ではありませんでした。侵略王朝ですから、土地と住民を征服・支配することが第一の目的であり、 封建制の基本である功績に応じて部下に領地を与えるための国土があらかじめあったわけではないので、 侵略する力が強く、封建制が発展していく過程を省略して、始めからある程度のレベルで機能していた ということです。 どこかの国のどこかの話とよく似ていると思いませんか?「ウイリアム1世』に始まる、『ノルマン王朝』、 『プランタジネット王朝』は日本の織田信長とその家臣団とよく似ています。 「私、作る人」「私、食べる人」という階層的ヒエラルキーが確立していた集団を想像しただけで その強さが、うかがい知れます。封建制度自体が強力な戦闘集団を作る手段でもあるわけですから、 当時のイングランドの軍事組織は「めちゃめちゃ」強かったといえます。 ノルマン王朝が一旦途絶えた後、その血筋を引くフランス人貴族のアンジュー伯アンリがフランス国内に ピレネー山脈から南フランスにいたる、広大な領土を持ったまま、イングランド国王に即位しました。 このことがノルマン王朝以来のイングランド王家のフランス国内の領土所有の問題に拍車をかけたようです。 1154年のことです。いずれにしても上の領土にノルマン公領を加えると無視できない領土になります。 彼は「ヘンリー2世」としてプランタジネット王朝の開祖となりました。 この時点で彼は自分のことをフランス人と考えていたようで、フランスの内ゲバ、内紛の色彩が強かった様です。 現在の日本で言えば関西以西がよその国の領土に突然なるくらいの騒ぎでした。 さてこの領土問題をめぐり、歴史学者によれば、1377年におきたといわれる、あのジャンヌ・ダルクも登場する、 『100年戦争』の時代が始まります。 プランタジネット王朝は1399年まで続きましたが、後を継いだ王朝もその系統と言われていますので、 その流れは1500年代まで続いたことにます。当時ヨーロッパは既に「十字軍」の時代でした。 #
by futuregate3
| 2006-10-05 09:28
英語はゲルマン系言語、フランス語はラテン系言語、だのに共通語彙がやたら多いのは何故 驚かないでください。言語学の世界では常識の部類の話です。英語とフランス尾の共通語彙の割合は、 語彙全体の80%に及ぶんですよ。 原因は今ブログで書いたばかりの、イングランドを統一した、「ノルマン征服王朝」にあるんです。 ノルマンのイングランドの統一・支配後、暫くの間イングランドの公用語はフランス語でした。 北部フランスの貴族集団とともに、相当数の人間の移住が行われたようですから、フランス語は、 一般レベルでもイングランドに流入したようです。 どのくらいの程度だったかということを示す、良い例があります。 英語では食用動物名と、食余蘊供する肉を表す言葉とが異なっています。おおよそ以下のようになります。 ■動物名 ・ox,cattle ・pig ・sheep ■食肉名 ・beef ・pork ・mutton これを見るとすぐ分かりますが、動物名と食肉名とは類似語でもなく、語彙としては完全に二重構造になっています。 これは言語学上、認知された考え方ですが食肉の供給者と食する人間の二重構造を写したものといえます。 つまり食肉の供給者はもともと、イングランドに住んでいた人間、食するのはノルマン王朝とともに 北フランスから来た貴族をはじめとする征服者側の人間ということです。 この様に「ノルマン征服王朝」の登場は歴史のみならず英語という言語に大きな影響を与えました。 同様に、発音が異なるので異なる言語に聞こえますが、同一の言語と見做せる語彙が実に多いのです。 Chの発音でチャールズはシャルルになります。トラベルはトラバーユと言った具合に枚挙の暇がありません。 もともと言語学上何の関連性もないはずの英語とフランス語が歴史のひとつの事象・事跡から この様な大きな影響を受けるのです。 イギリス人がフランス語をマスターするのに必要な度合いは日本人のそれと比べおそらく 10分の1程度で済むのでしょう。 歴史の1ページがこの様に大きな影響を言語に与えるのです。 今までお伝えしてきたことをご理解いただけるでしょうか。 #
by futuregate3
| 2006-10-04 11:21
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